小説

『黄昏を笑う』高平九(『死神』)

「家に、来た……結婚の……約束」
「えーっ、フィアンセがいたの?」
「うん……」
「お母さん知ってた?」
「ううん。初めて聞いた」
「びっくりだぜ」
 この数週間、夜になると昔の男達が良子の部屋を訪れた。予科練に行き特攻隊員として散った幼馴染み。伯父の家の書生だったあの人も南方に出征して帰らなかった。防空壕で良子への思慕を告げた脚の不自由な彼。無理矢理ジープに乗せられてGI達に犯されたとき、一人だけ何度も「ソーリー」と言ってチョコレートをくれた若いアメリカ兵。南方から復員した親友のお兄さん。良子が学生芝居でヒロインを演じたときの相手役。女学校を卒業してすぐに勤めた大手建設会社の同僚。銀座の百貨店にいたときの婦人服売り場の上司。ダンスホールで知り合った名も知らぬ男などなど。夫以外の男達はみんな一度ずつ良子を訪ねてきた。そして昨夜はとうとう園部が来た。
「良子さん。久しぶり」
 園部はかつての快活な気性のままに良子のベッドの脇に立った。ほんとうに久しぶり。良子は心の中で言った。男達と話すときは声を使わずとも心の中で話すだけでいい。心の中での良子は饒舌だった。なかなか来てくださらないから忘れられたのかと思ったわ。そうそう、本当はね。20年ほど前に一度お見かけしたんですよ。電車の中で。
「そうかい。なら声をかけてくれればよかったのに」
 あたしはすぐに気が付いたんですよ。あっ園部さんだって。でも、あなたは連れの方と話すのに夢中でなかなか目の前にいるあたしに気付いてくださらなかった。そのうちに座席を立って電車を降りてしまった。悲しかったわ。
「そりゃあ悪かったね。でもいいだろう。こうやって君を探し出したんだから」
 園部は手すりに縛り付けられた良子の手を両手に包むとそっと口づけした。昔と同じ爽やかなコロンの匂いがした。
 ねえ。あなたと結婚してたら、あたしもっと幸せになれたかしら。
「そんなこと考えても空しいだけだよ。人生は一度きり。それ以外はすべて幻に過ぎない」
 そうか。良子はそのときに気付いた。あたしはこの生真面目な園部より、ひたすら自分を楽しませてくれる夫を選んだんだ。
「……あなたも……恋、なさいね」
 良子は玲香にそう言うと精一杯の力で笑いかけた。
「うん、わかった。いっぱいいっぱい恋するね」
「やくそく……」
「うん。約束」
 玲香は良子の小指に自分の指を絡ませてゆび切りげんまんを歌った。玲香の大きな目が涙で揺れていた。

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