小説

『黄昏を笑う』高平九(『死神』)

 病室の窓から見えるのは倉庫の屋根と高圧線の鉄塔ばかりだった。高圧線の彼方から人の声がした。
「海の見える部屋で終わりたかったなあ」
 良子は心の奥でそう呟いた。でも、仕方ない。一人息子の俊太郎は市役所に勤めるしがない公務員だ。それに大学生の子どもが2人いる。今までだって毎月の仕送りや訪問看護の費用などで無理をさせている。これ以上は分不相応だ。そんなことは分かってる。でも……。
「海が見えればいいのに」
 ふた月前に救急車で運ばれて以来、昼間はいつも同じ言葉が胸の奥から湧いてくる。
 10年前、良子と夫は住み慣れた焼津から武蔵小金井にある良子の母親のアパートに越して来た。周囲には母親の介護のためと説明していたが、実は家業の電器店の経営が手に負えなくなったからだった。母親はその年99歳で亡くなった。夫が認知症を発症したのはその2年後だった。
 1歳若い夫は「お母ちゃんが待ってるから帰る」と言って深夜に部屋を出て行くようになった。もちろん最初のうちは止めていた。だが力の強い夫を抑えることはできなかった。名札を持たせているので、きまって朝になると警察官に保護されて戻ってくる。そして夜に暴れたことなどすっかり忘れて警察官に愛想を言ったりしている。やがて認知症が悪化した夫は入院し、そのまま老人施設に移った。良子は毎日バスで1時間かけて夫に会いに行った。良子が誰かも分からないくせに、差し入れの甘い物にだけは反応する夫が良子は憎らしかった。5年前、臨終の際に夫は急に「アジャラカ……」と呟いた。良子が「えっ。何ですか?」と言うと夫はにっこり笑って目を閉じた。悲しくはなかった。やっと夫から解放されたと良子は感じていた。
 今、良子は両手をベッドの金属の手すりに紐で縛りつけられていた。ベッドに拘束されたまま亡くなった夫の気持ちが少し分かった。
「こうしないと酸素マスクや点滴のチューブを外してしまうから仕方ないの、ごめんなさいね」
 良子がグズると担当の女医はそう言って額を撫でてくれる。それは嬉しい。でも、そうされると母親を思い出す。小金井のアパートに帰りたいと思う。もちろん、そこに母はもういない。それは分かっている。
「おふくろ」
 俊太郎の声がした。窓を向いていた頭をゆっくりと反対に向ける。自然に顔がほころんでしまう。
「こんにちは。お母さん」
 嫁の美佐子さん。孫の雄太と玲香も一緒だ。
「お祖母ちゃん。具合どう?」
 雄太は大学3年。子どもの頃からテニスばかりやっているので顔はいつも真っ黒だ。気が弱いのでなかなか試合に勝てないという。確かにいつも何かに負けたような落ち着かない目をしている。顔つきも性格も父親の俊太郎にだんだん似てきた。

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