小説

『コウソクロード』香久山ゆみ(『ウサギとカメ』)

 その小さな声に、僕の方が安心をもらっている。他者によって認識されてはじめてそのものは存在し得る、というのは哲学だったか量子力学だったか。他者からの承認を得ることで、世の中に自らの存在を確認しうる。僕は、ただここに生きていたいのだ。そのために進む。
『僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる』――ふと、高村光太郎の詩が浮かんだ。



 けっして立ち止まりはしなかった。ただただ前だけを見て走り続けた。失敗することもなく、夢のような富と現実を得た。
「月へ行く」
 壇上で発表した時の周囲の笑顔、歓迎されているのか嘲笑されているのか分からなかった。報道の後、級友達が同窓会を兼ねた壮行会を催してくれた。
「よう兎丸、がんばれよ」
「相変わらずお前はすごい奴だよ」
懐かしい顔、今でも連絡を取り合う顔など、たくさんの人が俺を取り囲んでくれたが、この中に本当の友人など……。
 いつから信じられなくなったのだろう、いつから不安が募るようになったのだろう。自分の両手に収まる範囲を超えて会社が大きくなった頃から、不安の芽は顔を出し始めた。友人だと思っていた者がふとした拍子に違う顔を覗かせる。そしてきっと自分自身も同じなのだろうと思うことが、なぜだか胸を苦しめた。けれど、俺は止まるわけにはいかない。皆が見ているから。皆、学生時代とは違う顔で笑っていた。
 その中に、一人変わらない奴がいた。
 亀岡。会場の隅でビュッフェを取り皿に山盛りに乗せて黙々とパクついている。教師をしているという。真面目なあいつらしい。
 といっても、直接話したことはほとんどない。運動会の時に、100メートル走で亀岡と同じレースを走ったことがある。ぶっちぎりで俺が先にゴールテープを切ったにも関わらず、奴は懸命に走り続けた。無我夢中にはひはひと息を切らせて、ゴールラインを越えてからも止まることなく走っていく。ゴール脇に座る俺に脇目も振らず一心不乱に、とうにゴールは過ぎているのに気付かず進み続ける。
「おーい、亀岡」
 呼んでも気付かないから、仕方なく俺が奴を追いかけて引き留めたのだ。まったく放っておいたらどこまで走っていったのやら。
 そんなことを思い出し、なんとなく、声を掛けようと亀岡のところへ行く。「よう」と声を掛けると、亀岡は驚いたように顔を上げた。
「食う?」
 挨拶もそこそこに、亀岡がまだまだ山盛りの取り皿を差し出す。「ずっと囲まれてて食ってないだろ」と。さすが学校の先生、案外よく見ている。
「サンキュ」

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