小説

『祖父、帰る』斉藤高谷(『浦島太郎』)

「あ、ちょっと」と言いかけて、やめる。祖父の背中を見たら批難の気持ちは萎えた。彼は仏壇に〈遺影〉として置かれた自身の写真を手に取って、立ち尽くしていた。だから開けるなって言ったのに。
 俺は音を立てないように腰を下ろす。タッパーを置く。そうしたこちらの動作が全て見えているように、祖父は言う。「まあ、六十年も家空けてたらこうなるよな」
 肯定はしづらい。だが、否定も出来ない。
「それがいきなり帰ってきても、困るよな」
 沈黙。
「その箱」
「え、箱?」ついタッパーに目が行く。その先に置かれた発泡スチロールだと遅れて気付く。
「お前にやるよ」
「は、なぜ?」
「俺が開けてじじいになっても、お前らに迷惑掛けるだけだろ」
「まあ、それはそうですけど……」本音が漏れる。しかし、祖母の時に両親が負っていた苦労を思うと、簡単に〈そんなことない〉とは言えない。少なくとも、俺にそんな権利はない。
「それはお前が預かっといてくれ。絶対に開けるなよ」そう行って、彼は仏間から出てくる。そのまま居間を通り抜け、出て行こうともする。
「どこ行くんですか?」
「適当に、どっか別の土地で暮らすさ。また漁師になるかもしれんが」
「親父に会っていきませんか?」
「今更どの面さげて会うんだよ」祖父は肩を竦める。「お前、親父が若造に恐縮してる姿見たいのかよ?」
 俺はまた黙る。
「しっかり勉強しろよ。何しようとお前の勝手だが、俺の息子に迷惑は掛けるな」
 そう言い残して、祖父は出て行く。玄関の開く音がして、閉まる音が響く。俺はそれを、ぼんやりしたまま居間の真ん中で聞く。
 壁掛け時計が四時を打つ音でハッとする。ウカウカしていたら家族が帰って来かねない。俺はコップを洗い、タッパーを冷蔵庫に入れ、鞄を掴む。座卓に置かれた発泡スチロール、もとい〈玉手箱〉が目の端に映る。無視するには存在感があり過ぎた。
 他の誰かが開ける様が、頭を過ぎる。単純に老人と化すならまだマシだろう。だが、六十年というタイムラグを埋めるための装置だとしたら人命に関わる。親父やお袋が開けた場合、現在の年齢にプラス六十をされたら間違いなく命はない。舌打ちが出る。
 一度鞄を置く。発泡スチロールに触れると、ひんやり冷たい。抱え上げる。重い。傾けると、中で小石が詰まっているようなジャラッという音がする。何か、覚えがないわけではない感触だ。箱を座卓に戻し、蓋の周囲に張られたビニールテープを剥がしていく。蓋を開ける段になると、もう〈玉手箱〉に望む気持ちは消えていた。
 蓋を取る。白い冷気が顔に当たる。
 だが、俺が七十八の老人になることはなかった。箱の中には氷が敷き詰められ、その上に小ぶりのタイとヒラメが一尾ずつ横たわっていた。ただそれだけ。竜宮城的要素を示すものは何も入っていない。むしろ、街の魚屋で調達してきたことがヒシヒシと伝わってくる。
「何だよ」声に出さずにはいられなかった。魚を冷蔵庫に入れるのは面倒なので、箱ごと納戸の目立つ所に置いた。
 改めて鞄を持って家を出る。駅で切符を買おうとした時、財布がないことのに気付いた。忘れたわけでないのはすぐにわかった。入れた覚えは確かにあるし、出した記憶は全くない。誰かが鞄から抜き取った可能性が一番に閃く。それが可能な人物に心当たりがあるからだ。

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