小説

『祖父、帰る』斉藤高谷(『浦島太郎』)

 最低限の着替えと貯金通帳を鞄に詰める。親父が帰ってくる前に、と一番気に入っている靴を履き、玄関を出ようとしたところで人とぶつかりそうになった。
「おっと」玄関の前に立っていたのは男だった。二十代後半といったところか。大きな発泡スチロールの箱を抱えている。
「すみません」俺は言った。「うちに何か用ですか」
「ここ、お前んちか?」
「そうですけど」相手の馴れ馴れしさにムッとしながらも、表には出さないよう努める。色黒な筋肉質の身体。喧嘩にでもなったら、怪我をするのはこちらの方だ。
「お前」男はしげしげと俺の顔を見てくる。「もしかして、昭一か?」
「いえ」昭一は伯父だ。今は隣町の役場に勤めている。
「じゃあ昭二か」
「違います」昭二も伯父だが、五年前に癌で亡くなった。
「すると昭三?」そう言うと、男は俺の肩をバシバシ叩いてくる。「でっかくなったなあ、おい。もう船、乗ってんのか」
「やめて下さい」俺は相手の手を撥ね除ける。「船なんか乗ってませんよ。普通の高校生です。それに昭三は俺の親父です」
「親父」男がピタリと動きを止める。「あいつ、もうそんな歳なのか」
「あいつって」俺は改めて男の顔を見る。どこか、他人とは思えないものを感じる。いとこたちに似ている気がするが、こんな色黒で筋肉質な者はいない。俺のまだ知らない親戚が急に訪ねてきたのだろうか。
 だが、何か頭に引っ掛かる。この男は初対面ではないと、頭の奥から声が聞こえる。一体どこで……
「あ」思わず声が出た。
 居間の隣の和室に置かれた仏壇。そこに飾られた写真立ての一つが、俺の脳裏に浮かんでいた。目の前の男の顔は、そこに映ったものと同じだった。

 仏壇には祖母や昭二伯父の写真に混じって若い男の映った古い写真がある。そこに収まる人物は六十年前、漁に出たまま行方不明になった祖父だと教えられた。その祖父が、座卓を挟んだ向かいにいる。写真に映っているのと同じ姿で、麦茶を一気に飲み干す。
「美味い。美味いが、こう暑いとやっぱりビール飲みてえな。ビールないのか?」
「ありませんよ。うちは誰も飲まないので」
「昭三もか? まあ、あいつ、昔っから病気がちだったからな。まあいいや。もう一杯くれ」
 俺は祖父からコップを受け取り、台所へ立つ。
 麦茶を注ぎながら、自分が何か悪い幻でも見ているような気分に襲われる。ひょっとするとこれは夢で、深層心理の奥の奥にある、これから親に迷惑を掛けることへの罪悪感がこんな回りくどいやり方を以て俺の考えを変えようとしているのかもしれない。そう思い、試しに頬を抓ってみたが、確かに痛い。口の内壁も噛んでみたが、やっぱり痛い。これは現実だ。

1 2 3 4 5