小説

『凍える夢』和織(『怪夢』)

 沈黙の末、樹の目が不自然に動いた。彼が血まみれの死体を見ているのが、相模にはわかった。
「どうして、お母さんを殺したの?」
 黒い探偵が、樹を見ていた。樹は走った。身軽だった、子供だから。まだ八歳だから。
「黒い探偵は、本当のことを知っているよ」
 そうだ、だから自分は追われているんだ。と樹は思う。黒い探偵は知っている。誰がお母さんを殺したのか、知っている。
「君も、本当のことを知っているよ」
「本当のこと?」
 樹は立ち止まった。そして、振り返った。黒い探偵が追ってくる。真実を告げる為に。でもそれは駄目。そうすると、本当のことが、誰にもわからなくなっちゃう。

* * *

 あの日の明け方、なぜだか樹は目を覚ましてしまった。まだ起きる時間ではないと思ったが、トイレに行く為に、部屋を出た。すると、リビングが明るかった。どうして両親が起きているのか、二人で何か楽しいことをしているのでは、と思い、そっとリビングを覗き込んだ。するとそこでは、父が母を抱き上げていた。テーブルには酒らしきものが置いてあった。母は眠っているようだったから、ベッドに運んでやるのかと思った。でも、父は母を担いだまま、ベランダの窓を開けた。雪で白くなったベランダへ出ると、父は母の体を、足から柵の外へ出し、彼女の手を片方ずつ、柵へ押し付けた。樹が「何をしてるんだ?」と思った瞬間、父は母の体を手放し、母は、樹の視界から消えた。
 樹の喉から、ヒュッ!と息と声が刺し合ったような音が出た。それに、父は振り返った。目が合って、樹は後ずさった。父が一歩前へ出ると同時に、樹は玄関へ走った。鍵を開けて、ドアを開いて、裸足のまま、冬の冷たい廊下を全速力で走った。父が追ってきた。でも、「捕まらない」と思う。「捕まってはいけない」と思う。そうやって全速力で、白い廊下を潜り抜けた。父は、どこまでも追ってくる。下へ降りなくては、と思う。でも階段の手前でコントロールが効かなくて、足がもつれて、体が倒れて、落ちる瞬間、父が見えて、消えた。

* * *

 

「こんにちは」
 カフェテリアで美佐子を見つけ、相模が声をかけた。座っていいかと尋ねると、美佐子は「どうぞ」と手で示した。小山田樹は、まだ少しぼんやりとはしているが、確実に回復へ向かっている。美佐子の表情も明るかった。ただ、回復したことで新たな心配事が生まれてしまったのも事実だった。
「お父さんのこと、これからどう話していこうか、わかりません」
 美佐子は言った。
「まぁ、お二人が幸せでいる為にここが必要であれば、いつまでも通ってくださって構いませんよ。それに、考えなくてはならないことなのかいうと、もう、そうでもないと、僕は思うんですよ」
「え?」

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