小説

『奪うこと、失うこと』吉田猫(『ジャックと豆の木』)

 俺は何もなかったような顔で注文の入ったマネキンを倉庫からかき集め塗装係に引き渡す作業を無言で続けた。やっさんはもちろん、誰にも声をかけられるのが嫌で透明人間になりたい心境だった。
 工場はいつになく静かに思えた。スプレーや台車の騒音は五日前と同じなのに。昼休みにその理由がわかった。やっさんだ。やっさんのいつものでかい声が工場に響き渡っていなかったからだ。食堂でも仕出しの弁当を食べてはいるが俯いたままのやっさんは元気がない。
「逃げたんだとよ」
 卵焼きを箸で挟んだフジイが俺の耳元で低い声で言う。
「彼女に逃げられたんだ、やっさん。可哀そ過ぎだろ。ちょっと前、そうだ佐山さんが休んだ日だ。家に帰ったら服とかへそくりとか無くなってたんだって。俺、てっきりあの女、佐山さんと逃げたと思ってた」
 一瞬ドキリとしたがそれを顔に出さず、なんだよそれ、ととぼけた。
 フジイは笑いながら卵焼きを口に入れて半分齧った。
「まあそれは冗談だけど、大したもんだよ、中年のおっさん弄んで」
「どこにいったんだろう?」俺はそっとフジイに聞いてみた。
「さあね、心当たりは全部探したらしいけどどこにもいなかったって泣きそうになってたな、やっさん。遠くにいっちまったのかな?」
 そうか、とだけ言って俺は食事を済ませるとそそくさと席を離れ一人で中庭に向かった。ベンチに座り煙草に火をつけると空に向かって吸い込んだ煙を吐いた。
 やっさんから奪った宝物はあっと言う間に俺の手もすり抜けてどこかに消えてしまったのだ。咲菜に何が起きたのかわからない。俺が何かに火をつけてしまったのか。
「なんでだよ」と自分に独り言のように言って思わず笑った。可笑しいじゃないか。笑えるよ。
 そのときハッと気が付いた。あの触手があのとき以来現われていない。何故だかもう二度と見えなくなってしまったと感じた。
 きっと咲菜は俺から逃げ出すため巻き付いていたあの触手を切り裂いて、おまけに豆の木そのものを根本から切り倒したのだ。あいつには見えていたのかもしれない。
 天から転げ落ちたような気がした。俺はこれから何を頼りに生きて行けばいいのだろう。まったくわからない。
 急に恐怖を覚えた。

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