小説

『奪うこと、失うこと』吉田猫(『ジャックと豆の木』)

 それだけ言って電話を切った。やわらかい日差しを浴びながらベンチに座り煙草に火をつけ空に向かって煙を吐いた。
 昨日のことを思い出す。
 脳天に雷が落ちたような関係を持った後、裸のままの咲菜を後ろから抱きしめながら俺は言ったのだ。
「なあ、俺と一緒に逃げないか?」
 咲菜は何も言わない。
「黙って行くのがいやだったら、やっさんには女友達と旅行に行って来るって言っときゃいい。飽きたら帰ればいい。やっさん、いつまでも待ってるぜ、あんたのこと」
 咲菜が無言で胸の上にある俺の手に自分の白い手を重ねる。
「岩手に、昔働いていた牧場があるんだ。人手が足りないからいつでもまた来てくれって言われてる。一緒に行かないか?」
「牧場?」咲菜が俺の腕を振りほどいてこちらに体を向けた。
「牧場って牛の世話とかするの?」
「いや、あんたは何もしなくていい。もし働きたいんだったらやってみればいい。空は青いし森もあるし最高だぜ」
 咲菜は俺を上目使いで見つめた。
「行ってみたい……」
「だろ」
「でもやっさんが可哀そうだよね」咲菜は口ではそう言いながらも体は俺にしがみついてくる。
「大丈夫だ、落ち着いたら連絡してやれば平気だって」
「そうかな」
「そうだって」
 俺たちは真昼間からやっさんの安アパートで裸のまま抱き合っているのだ。やっさんの宝物を奪って本当に逃げてやる。ひりひりする罪悪感と優越感がたまらなく心地よかった。

 翌日誰よりも早く出社し工場長を待つと祖父が死んだと嘘を言って一週間の休暇届けを出した。何か声をかけてきた工場長を振り返ることも無く部屋を出た。もう帰ってくることが無いかもしれない。工場長には申し訳ないと思うが、金の卵を産む宝物を手に入れたのだからしかたがないじゃないか。
 しかし待ち合わせ場所と決めていた駅前のコーヒーショップに約束の時間になっても咲菜は現われなかった。コーヒーを三杯飲み、電話しても呼び出し音が聞こえるだけだった。悪態をつきながら駅前を夜までふらつき、嘘を言った手前寮にも帰れず数日間ネットカフェでしのぐ羽目になってしまった。

 休みを五日で切り上げしかたなく工場に出社した。工場長からは、もういいのか?と言われたが礼だけ言って仕事に戻った。我慢できないほど間抜けなこの話を誰かに知られたら死にたくなりそうだ。

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