小説

『奪うこと、失うこと』吉田猫(『ジャックと豆の木』)

 塗装用スプレーでマネキン人形を一体仕上げた古株のやっさんが防塵マスクを顎までおろすと、今夜うちに来るか、と俺を見て言った。

 俺はこのマネキン工場に入ったばかりの見習いだ。ちょうど二か月前、仕事も見つからず競馬でも全部負けて癪に障って蹴飛ばした壁にこの工場の張り紙を見つけた。
『従業員募集 未経験者歓迎』 
 そのとき俺には見えた。
 事あるたびに突然現れるいつものあれだ。まるで豆の木のつるみたいな数本の触手が視界に現われ俺が進むべき道に伸びていく。それが何なのかも知らないし、それについて行ったからといって決していい思いをしてきたわけじゃない。でも子供の頃から俺だけに見えるその不思議な物にいつも導かれ身を任せてきた。他人から見たら行き当たりばったりの人生。それが俺の生き方なのだ。
 俺はこの工場のことを何も知らないままその触手が伸びていく門をくぐった。対応してくれた工場長は履歴書は次に来るときでいいからとその場で雇ってくれた。今では社員寮にさえ入れてもらえた。
 新入りは当然スプレーなんか持たせてもらえない。今は倉庫に裸で並ぶ多くのマネキンの中から注文のあった物を選別して塗装場まで運ぶ作業が俺の仕事だ。
 そんな俺をベテランのやっさんが突然家に誘ったのは新入りに気を使ったからじゃない。その理由は年下の先輩で塗装見習いのフジイから聞かされていた。五十半ばのやっさんは去年から三十も年下の女と暮らし始めた。それがうれしくて誰彼となく家に誘って彼女を見せるのだと。
 断る理由もないし少しばかり興味を覚えた俺は仕事が終わるとやっさんに連れられて工場を出た。
 工場にほど近い場所にある木造アパートの二階の一番端がやっさんの城だ。鉄の階段を登りやっさんがドアを開けると迎えてくれたのは笑顔の若い女だった。可愛い目鼻立ちに少し茶色の長い髪が美しい。ニットセーターの豊な胸のふくらみに目が行ってしまう。俺は小さく頭を下げた。
「こいつ、新入りの佐山だ。今俺が仕事教えてる」
 やっさんは自慢げに彼女に言うと早く入れと俺を促した。
 狭いアパートの居間はぬいぐるみや写真が飾られてまるで女の子の部屋のようだ。どう見てもやっさんに似つかわしくない。
 こたつに入り「あれな、咲奈っていうんだ。身寄りが無くてな、去年から一緒に住んでる。今年中には結婚しようと思う、と言うやっさんはたまらなく嬉しそうだった。
 その彼女が準備してくれた鍋をつつきながらやっさんは出会った時の話を始める。工場の帰りにいつも買い物をするスーパーの豆腐売り場で三回も一緒になったのがきっかけだったというこの話を大勢に何度となくしてきたに違いない。
 彼女が台所に立った時にやっさんが俺の耳元で小声で囁いた。

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