小説

『あるく姿は』間詰ちひろ(『源氏物語』第九帖「葵」)

 梅雨が明けたばかりで蒸し蒸しと嫌な暑さが続いていた。数日前から体がだるく、六美はテーブルに突っ伏してほんの少しの間うたた寝をしていた。まどろみの彼方から電話のベルが響いている。六美は目を覚まし、泥のように重い体をどうにか持ち上げて電話に出た。電話の先は騒がしく、混乱した様子がうかがい知れた。いたずら電話だろうかと六美が訝しんでいると「葵さんが、救急車で運ばれた。とにかくすぐに病院へ向かって」と、叫んでいるような勢いで告げられた。
 その日、葵は町内の人たちと連れ立って箱根の温泉旅行へと出かけていた。宿の近くの公園にはヤマユリが咲き誇っていて、辺りには甘い香りが立ち込めていたらしい。見ている人は皆足を止め、一様に眺めていた。葵はそのヤマユリに見とれるように、ふらふらと近寄って行った。しかし葵の様子はどこかおかしかったという。
「あっちに行け! 近寄るな! って、葵さんすごい剣幕で騒ぎ出して。手をバタバタ振り回した後に、倒れ込んだのよ。辺りには蜂がたくさん飛んでいて、刺されたんじゃないかって……」
 電話口から響く声は、六美の耳には届かなかった。なぜなら、その光景をついさっき目の前で見ていたのだ。
 机に突っ伏してうたた寝をしていた夢の中で、姑は蜂に襲われて恐怖に歪んだ顔をしていた。六美は葵に叩かれそうになりながらも、必死で抵抗していた。この女が憎い、死んでしまえばいいと、恨みながら葵を襲っていた……。
 病院の場所をメモに記し、六美は受話器を置いた。その手は震えてとまらない。
「あの夢はなんだったの……?」顔でも洗って嫌な汗を流そうと、洗面所へ向かった六美は、「ひっ」と声をあげた。鏡に写っている自分の姿が、まるで鬼のように見えた。目は吊り上がり、頬はげっそりとやつれている。何よりも、着ていたブラウスには黄色い花粉のようなものがべったりとこびりついていた。六美は慌ててブラウスを脱ぎ、蛇口をひねって洗い流そうとした。けれど、その黄色い花粉は何度洗っても、流れ落ちることはなかった。
 呆然とした気持ちを抱えながらも、六美は夫に連絡をした。夫は慌てていたが、ふたりで葵が搬送された病院へと向かうことにした。しかし、病院に着いた時、葵はすでに息を引き取っていた。医師からはハチに刺されたショックが原因だと説明されたが、六美は自分が殺したのだ考えずにはいられなかった。

「……でも、お婆ちゃんは夢を見ただけでしょ? 夢の中で起きたことなんて、責任取れないよ……」
 夕奈は祖母の告白を聞いて、にわかには信じられなかった。ただ、昔の出来事だけれど、今でも六美を苦しめ続けているのは間違いない。
「……でもね、夕奈ちゃん。お婆ちゃんが着ていたブラウスに百合の花粉がついていたことは、どうしたって説明できないの。それに、お姑さんを憎んでいた気持ちも……」六美はとても悲しそうな表情をして、力なく首を左右に振った。夕奈は六美に対してなんて言えばいいのか分からず、ただ、黙って俯いていた。
「夕奈ちゃんに話すことになるなんて、思ってもみなかった。……この話は亡くなったお祖父ちゃんにも言えなくてね。お婆ちゃんが死ぬまで秘密にしておくつもりだったのに」そういうと、六美は少し前のめりの姿勢になり、夕奈をそっと抱きしめた。そうして、「こんな話を聞かせちゃって、ごめんなさい……」と涙を流していた。夕奈は祖母の細くやせた背中をただ優しくさすり続けるしかなかった。

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