小説

『なんともまぁ狭き世界で』太田純平(『如何なる星の下に』高見順)

 ドン、という痛みと共に現実に引き戻された。誰かが私の肩にぶつかったらしい。気付けば真弓は隣にいなかった。辺りを見回すと、彼女の背中は仲見世通りの中にあった。有名な煎餅店の列に今まさに並び始めたところである。慌てて彼女のもとへ向かい、文句を言った。
「ちょ、勝手に行かないでよ」
「もうあの子みたいな事はナシにしなよ?」
「あの子?」
「美羽たん」
「……」
 頭が忙しい。今度は島津美羽の事が脳裏に浮かんだ。美羽は真弓と同様、飲食店の元バイト仲間である。歳は私と同い年。そもそも私が真弓と仲良くなるきっかけは、この島津美羽が作ったと言ってよい。私と美羽が付き合う付き合わないの微妙な関係になった時、恋愛相談に乗ってくれたのが大先輩の伊藤真弓だったのである。
「今がチャンスだからね? 美羽たん、彼氏にフラれたばっかなんかだから――」
「てか付き合ってもない女が男を家に呼ぶ気持ち、アンタに分かる?」
「家行って何もしないとかナメてんの?」
 辛辣だったが、真弓のアドバイスはいつも的確だった。私は一人暮らしの美羽の家に泊まっておきながら、彼女に一切手を出さなかった。それが正しい事だとさえ思っていた。美羽に「一緒に寝よ?」と迫られた際も、羞恥で真っ赤になりながら「いや……俺は玄関で……」と、どもりながら答えたぐらいだ。結局、そういう消極的な態度が災いして、美羽は元カレとヨリを戻した。
「一枚百円ね」
 おじさんの声でハッと我に返った。気付けば煎餅屋の列の先頭にいて、真弓が一枚百円のぬれせんべいを二枚受け取ったところだった。
 例の如く食べ歩きはダメなので、小道に入ってぬれせんべいを食べた。真弓が「もうあの子みたいな事はナシ」と言ったのは、今度こそ好きな女性に対しては積極的にいけよ、という戒めだろう。そんな過去の恋愛事情と同様、ぬれせんべいはちょっとしょっぱかった。
 仲見世通りを暫く歩く。食べ歩きの三件目は新鮮なイチゴが丸ごと串に刺さったイチゴ串で、四件目は有名な揚げ饅頭だった。混雑具合も、宝蔵門の辺りまで来るとようやく人心地がついた。揚げ饅頭を頬張りながら、真弓が言った。
「写真とか無いの?」
「写真?」
「好きな子の」
「ないよ。しゃべった事もないし」
「な~んだ」
「?」
「それじゃあ好きって言わないよ」
 そう言って彼女は窺うように私を見た。彼女の言動はいつだって深い。私が反論の口火を切ろうとすると、そんな事より揚げ饅頭で手がベタベタだ、というような素振りを見せてきたので、鞄からウェットティッシュを取り出し彼女に渡した。
「センキュウ」
わざと調子を外したような声で真弓が謝意を述べた――その時である。
「――!?」
 お好み焼き屋の屋台から宝蔵門にかけて歩いているカップルに目が留まった。心臓を「うっ」と突き刺すような衝撃。鈴木百合亜さんが、同僚の警備員と手を繋いで歩いていたのである。
「なに? どしたの?」

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