小説

『運べ、死体』永佑輔(『走れ、メロス』太宰治 、『粗忽長屋』落語、『耳なし芳一の話』小泉八雲)

 彼らは警戒している。
「熊沢君は死んだ。ここに来るのは、芹那を道連れにするためだ」
 熊沢の死をみじんも疑っていない父親が口を開いた。
 母親と弟妹はうなずく。
「熊ちゃんは定期的に見えすいたウソをつく人なの。約束の十一時には来ないけど、十一時半には来る」
 芹那は包容力のある笑顔を家族に向けた。
 父親と弟妹はその笑顔につられて笑う。
 その笑顔、母親には通用しなかった。母親はエイトビートの貧乏ゆすりを刻んでいる。
「ここを離れよう。みんなで逃げよう」
「お母さん。今日は私のハレの日なんだから、しっかりして」
 芹那は母親の手を握り、ついでに母親の腕時計を見て、時間の早さを恨み、盤を叩いた。

 数分前までエイトビートだった母親の貧乏ゆすりは、今や両足でシックスティーンビート。
 尋常ならざる様子を見て、父親がドアを開けて叫ぶ。
「神父さーん」
 入って来たのは半そで短パンのアジア人。かったるさを訴えるためのあくびをしている。
「娘が幽霊に連れて行かれてしまうんだ。どうか全身に般若心経を書いて、連れて行かれないようにしてくれ」
 父親は神父に向かって頭を下げた。
 当然、神父が仏教に精通しているはずがない。しかも、カトリックではなくプロテスタント。だから、神父ではなく牧師。さらに言うと、普段は英会話講師をやっているバイト牧師。つまり、宗教的にはただの役立たず。

 妹が般若心経を思い出そうとするが、思い出せたのは「色即是空、空即是色」と「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー」だけ。
 弟が口を挟む。
「カシコミカシコミってのもあるだろ」
 弟は家族から無視をされた。
 一部始終を見ていた神父、ではなく牧師、でもなく半そで短パン野郎が憫笑を浮かべて吐き捨てる。
「ネットで検索すりゃいいじゃん」
 家族が赤面した理由は、真っ当なことを言われてバツが悪かったから。
 芹那が顔を赤くした理由は、怒っているから。
「アラフォーでウェディングドレスを着ること自体、ギリギリ精一杯なの。全身般若心経なんて冗談じゃない」

 もうすぐ東京脱出というところで、熊沢の前に若い男女が立ちはだかった。
「あのう、大変不躾な申し出ですが、お金を貸していただけませんでしょうか」
 四十を過ぎてカツアゲされるとは思いもよらなかった熊沢は、素直に答える。

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