小説

『名も知れない花』洗い熊Q(『名もなき草』)

 意地だったか。または女を詰られ収まらない怒りなのか、それとも贖罪か。
 殴られ朦朧としても引かなかったが、最後に打ち所が悪かったか地面に叩きつける様に男は倒れた。

 それから男は二度と動かなかった。

 慌てたのは倒した二人だ。動かなくなった男を確認して更に青ざめた。
 まさか相手が死ぬとは思っていなかったからだ。酔いも覚めて冷静に男を見れば、裏の界隈では名の知れた者だ。
 それで更に二人は狼狽えた。幾ら流れで喧嘩になったが、死なせてしまっては何かしら男の背後にいる者に、要らぬ仕返しがあると思って当然だ。
 二人は男を近場にあった布に包み、急ぎその場から運び出していた。

 二人が男の遺体を抱えて向かったのは灯台だ。
 断崖の上に立つ潮風で薄汚れた高い灯台。その崖の下は荒波で白い泡が立ち、まるで海の怪物の白い牙が何時でも待ち構えて渦を巻いている様に見えた。
 崖側は鬱蒼と草だけが生え、日中でも陰気な空気。その中に此方を見下す陰湿な壁を持つ灯台だけ。
 この崖からは何人も人間が身投げをしていた。この場の雰囲気がそう言った者を呼び寄せるのか。健全な者は誰一人近づかなかった。
 最初、二人はこの崖から男の遺体を投げ捨てようと考えた。身寄りのない男。酔った勢いで落ちたとでも思わればこれ幸い。
 だが投げ捨てようとした直前。男二人は不安に駆られた。
 捨てるはいいが、遺体が見つかってはまずいと。
 此処で身投げした者のは必ずといって近隣の波止場へと流れ着く。海の底へとは沈まず、まるで寂しさに耐えかねた死者が賑やかな灯りに吸い寄せられるかの如く。
 最後に男と会っていたのは自分らだとは直ぐに分かる。迷ったあげく、二人は男の遺体を崖側の地面に埋める事にした。
 陰気な場所だ。そうそう人は近づかない。深く穴を掘れば、潮風で臭気も掻き回され臭わないだろうと。
 男の遺体は灯台下に深く深く、埋められてしまったのだ。
 男が一人消えた。誰一人として気が付かない。気付いたとしても、ああ、そんな奴がいたなと答える程度だ。
 彼の名を訊いた所で誰もが首を横に振る。聞けるのは精々、悪態ぐらい。もういた事さえ忘れ去られるのだ。
 何一つ残さなかった男は他者の記憶にも残されず、もう誰一人として男の名は知る者などこの世から消え去ってしまったのだった。

 
 十年も経っただろうか。
 あの灯台の崖側、男が埋められた場所に一つ花が咲いた。

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