小説

『名も知れない花』洗い熊Q(『名もなき草』)

 今間でなら男は街から出るのが常だ。仕事は終わった。もう此処には用はない。
 だが男が出向いたのはあの酒場だった。
 そして向かえてくれる、あの彼女。屈託のない笑顔。それに男はまた苦笑いで返すだけ。
 初めての出逢いと何一つ変わらない場面だった。それでも新鮮に、掛け替えのない瞬間に感じられた。
 そうだ。男はこの為に舞い戻っていた。それは永遠と続く日の出の様な眩しさに思えたのだ。

 
 一日、また一日と。
 もう数か月以上、男は港町に留まる。
 これ程に一つの土地に居着いた事など、自分が生まれた場所以外では彼には初めてだった。
 理由などあからさまだが、彼を知り得ない者には只の物好きぐらいにしか思われないだろう。
 特に土地の者でもない、有意義な仕事に就いている様子もない。
 ただふらりと酒場に現れては、浴びる様に酒を飲んで潰れている男だったからだ。
 ここに来た頃は。
 そんな潰れた彼を労る、たった一人のいた筈だが。
 今はもういない。女は酒場に姿を現さなくなっていた。
 その訳を知るのもたった一人だ。この酔い潰れている男だけだ。
 女がいなくなってから酒の量が増えた。潰れた姿は強健な印象など微塵もない。このまま寿命を向かえるまで酒に潰される世捨て人にしか見えない。
 もういるだけで鬱陶しい存在に成り下がっていたのだ。
 また男はやって来ては浴びるほど呑んでテーブルに突っ伏す。職に就いてる様子なく酒代だけは出す男に、周囲は不思議がっていた。そうだ、男はまだこの港町で彼にしか出来ない事を続けている。

 ある時。潰れた男を尻目に隣で呑んでいた男二人組がある話で盛り上がっていた。
 この酒場で働いていた、あの女の話だ。彼女が消えた事について、あらぬ憶測を言い立てるのだ。
 周りが聞いていても耳障りな酷い言い様だ。それが酒のつまみ代わりに二人は笑って、いない女を詰り始める。
 周囲も怪訝な顔で男達を見始めた時だ。酔い潰れていた彼がむくりと起き上がる。そしてふらふらと千鳥足で隣の男達に近づくと二言、三言を言い放った。
 大した悪態ではない。しかし見窄らしい癖に高圧的な態度に男達は言葉以上に激昂するのだ。
 その場の流れのまま、二人を外に連れ出した男。普段なら決して請け負わない喧嘩。酒に責任も人生も擲ってしまった行為だ。
 幾ら強がっても、酔いどれで真面に立ってられない男に勝ち目などない。路地で殴り合いが始まっても一方的にやられるばかり。だが男はずたぼろになろうが立ち向かっていくのだ。

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