小説

『Tokyo山月記』両成敗(『山月記』)

 近年、引きこもりから虎や狼になるケースが多発している。
 多くは20代後半から30代だが、50代で発症するケースも報告されている。7割が男性だ。
 この巷では『獣化症』、学術的には『内因性外部異種化症候群』は、2020年から増加の一途をたどっている。昨年度、獣化した人は報告されているだけでも3000人。今年は去年以上のペースで獣化人口が増えているという。

「あ」
 セミの死骸を踏んづけてしまった。
指の逆剥けが痛い。ハンドクリームのいいやつを買わないと。安いやつはだめ。微かな耳鳴りは、生理が近いせい。月のそれの前は、いつもこうなる。
 私は三ノ輪梓。市のケースワーカーとして、この獣化症になりうる世帯と連絡を取り、発症を未然に防ぐ活動をしている。
 獣化といっても、別に怖くはない。姿は獣になっても、しばらく人間の意識があるから、ある程度の意思の疎通は図れるし、完全に獣化する前に、役所の別の課に引き継ぐからだ。私はつまり、ごく初期症状だけを相手にする。
 空はどんより暗い。福祉関係の仕事がしたくて、市役所に入った。私は微弱ながらも市民の役にたっている。それが、わずかな救いだ。
 今日も、獣化が心配される引きこもりの男性の自宅を訪問する。訪れたのは、お菓子の箱のように同じデザインの一軒家が並ぶ建売住宅の一軒。玄関にはネコのレリーフをあしらった『UCHIDA』のネームプレート。玄関前のわずかなコンクリの隙間から雑草が生えて米粒のような小さな花をつけているのが見えた。
「こんにちは。国分寺市役所から参りました、三ノ輪と申します」
チャイムを鳴らしてインターホンに声をかけると、男性の母親、内田弓絵が顔を出し、丁寧におじぎをした。
 私は市内50軒ほどの世帯を担当し、内20軒程を特に念入りに家庭訪問している。その家はそれぞれ家族構成、住居こそバラバラだが、家屋に入ると一種独特の似た雰囲気を感じる。
引きこもりという、社会では受け入れられない生活形態を続ける事による重たい空気。一種独特のねばり気のある重力が住居に充満している。この内田家も、その例にもれず重苦しさをまとっていた。
 居間は、きちんと片付いていた。テーブルに座ると、用意してあったらしい茶菓子がすぐに出てくる。ああ、萩の月だ。これ、好きなんだよね。
 弓絵は50代、書類によると56歳だが、化粧もして白髪もきっちり染め、品のよいマダムといったいでたちだ。大きな目の下には年相応の細かい皺があるけれど、全体的に若々しい。真っ赤な口紅の下にある黒子が印象的だ。
「わざわざお越しいただいてすいません」
 少しかすれた声で弓絵が話す。

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