小説

『グロキシニアの火』菊武加庫(『智恵子抄』)

 バレエ団には同じ日本人の敷島裕斗(しきしまゆうと)がいたが、彼は口元だけ皮肉に笑って言った。
「僕はもう少し残るよ。ここに来るために、母が寝ずに働いてくれたんだ。僕だってアルバイトを掛持ちしてやっとここに来られた」
 奏吾は留学資金を調達する困難など、考えたことがなかった。ましてや、才能があるにもかかわらず、国外に出られない人間がいること、あるいは、経済的な理由でバレエを継続することすら断念する若者の存在に至っては、一生想像もつかないのであった。

 帰国してからの奏吾はさらに荒れた。十数年ぶりの祖国は彼を失望させるばかりだったのだ。バレエをするために生まれてきたような美しい仲間たちから逃げて辿り着いた母国では、町行く人々の醜さに絶望し、二度と会わないであろう雑踏を往来するだけの人々さえ嫌悪した。不格好な手足、低い鼻、猫背、出過ぎた頬骨、そういった同胞に囲まれて、安堵するどころか絶望と憎悪しか湧いてこない。帰って来た場所を美しいとも思えず、踊ることから遠ざかった。
 権威である父の期待も重かったし、父の古さにもうんざりした。今更白鳥だの眠りだのクラッシックだけでやっていくなんて、もう二十一世紀が見えているのに時代錯誤も甚だしい。奏吾は家を飛び出し、新しいカンパニーの旗揚げを決意した。
 けれど、所詮は坊ちゃんだ。どこまで行っても奏吾はすねかじりの身でしかなかった。そのころの彼は、稽古もしていない。就職はおろか父の手伝いすらしていなかった。そこで、今後の援助と財産は放棄すると豪語して、実家所有の土地にスタジオを建ててもらった。啓介にすれば言わば傀儡政権に過ぎなかっただろう。これが大きなすねかじりであることすら分からないほど、奏吾はお坊ちゃん体質だった。
 まず旗揚げ公演を企画した。公演を一回やりきるには億に近いお金が動く。スタッフを決め、キャストを決める。そして彼らにはふさわしいギャラが発生する。大道具、小道具、衣裳、全て安っぽいものにはできない。ポスター、チラシ、パンフレット、そしてチケット販売。きりなく大金が動く。
 その一切合切にかかる費用を父がぽんと出してくれた。そのおかげでフランスから旧知の振付家やダンサーを呼ぶことができたのだ。飛行機代、宿泊費、食事代、全て団で支払うのだが、奏吾は父の援助を甘受した。援助を断るのはこの後の話だと都合のいい解釈をしていた。
 しかも舞台の内容は、自分の創造主である支配的な父親を殺して、一人の青年が自立していくという、父にとっては甚だ心外であろう題材だったのだが、そのコンテンポラリーダンスの成功を啓介はことのほか喜んだ。
 企画、振り付け、主役の三役をこなし、奏吾の名声が高まるにつれ、入団希望者も倍増した。しかし、彼の荒れた心は休まることはなく、常に暴風雨の中に身を置いているかのようであった。
 そんな折、凱旋帰国していた敷島から連絡があった。貧窮にあえぎながら踊っていた彼は、欧州を代表するダンサーになるきっかけを掴んでいた。
「食事でもしないか。旗揚げおめでとう、と言いたいところだが、君の顔色がよくないのが気になるんだ」
 敷島に指定されたレストランに行くと、彼は若い女性を連れて来た。てっきり結婚相手を紹介されるとばかり思ったが違った。

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