小説

『走れ香奈子』杉森窓(『走れメロス』)

 この化学式……。由紀奈に出してもらった問題と同じ……。
 ふと、由紀奈の席を見るが誰も座っていない。担任の教師は風邪で休むと言っていた。つまり、彼には由紀奈から連絡があったのだ。なのにおかしい。香奈子からの連絡には、由紀奈は一切答えようとしない。だんだんと怒りが湧いてくる。嫌になったなら、そう言ってくれればいいのに。そりゃもちろん、推しキャラクターの、ましてや推しカップルのカードが手に入らないかもしれないのはとんでもなく悔しい。しかしそれで由紀奈を責めることなんて、絶対にないのに。いくら心でふつふつと思っても、思っているだけでは相手には届かない。香奈子はシャープペンの芯を何回も折りながらやり場のない怒りをぶつけるように回答欄に答案を書き連ねていく。最後のチャイムが鳴る頃には、香奈子は一番に教室を出て、ある場所へと走っていた。

「ごめんなさい。由紀奈、インフルエンザだから香奈子ちゃんに移しちゃうって」
「本当にインフルエンザですか?!」
「ほ、本当よ?」
 一瞬、由紀奈の母の目は泳いだ気がするが、香奈子はそれ以上詮索しなかった。これ以上事を荒立てて、由紀奈の家に出禁になるのは嫌だ。後は詳しいことを知っているとしたら由紀奈の彼氏だろうか。しかし生憎、香奈子は彼の連絡先を知らない。それどころか、会話をしたこともない。男子と話すなんて、もう何年していないのだろう。慣れていなさ過ぎて、未だに前の席の男子からプリントを回されるだけでも緊張するくらいだ。
 そんな香奈子が、今、一人の男子生徒の前に立っている。
「な、何……?」
 ぼさぼさの髪の毛でニキビが顔に数個出来ているような香奈子よりもひょっとしたら女子力は高いかもしれない清潔感たっぷりのすべすべお肌にかわいい顔の太田賢也。彼こそが由紀奈の彼氏だ。
「あ、あの、そ、その……」
 ぶつぶつと、耳を大分済まさないと聞こえない程の声でどもりを繰り返している香奈子を、賢也は目に見えて怖がっている様子だ。しかし香奈子は由紀奈の親友であることは彼もよく知っている。その事実だけが、彼をここに引きとめている。
「ひょ、ひょっとして、由紀奈のこと……? だったら俺も……」
「何か知ってるんですか!!」
「ひっ」
 突然肩を掴まれ、賢也は悲鳴を上げる。
「ちちち違うよ俺も連絡とれなくて! わからないんだ何があったか!」
「け、喧嘩でもしたんじゃないんですか!」
「してないよ! 俺たち、ラブラブだもん!」
 賢也のその言葉に、香奈子は心のどこかがチクりと痛むのを感じたが、構わず続ける。
「嘘ばっかり! だってあなたたち、私のせいでろくにデートも電話もする時間なかったでしょう! そう! だからあなたが由紀奈に怒ったんでしょう! そうですよね!」
「ち、違うってば~」
 今香奈子は、初めてまともに男子と会話が出来ていることを心のどこかで誇らしく思っていた。(香奈子にとってはまともな会話らしい)半泣きになる賢也を見ていると、なんだか勝ったような気分になる。あんなに怖がっていたのが馬鹿らしくなってきた。
「じゃあ今ここで由紀奈に連絡とってみてください」
「……なんて」

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