小説

『彼女が僕を縛ったら』むう(『浦島太郎』)

 店に戻るとオトは予約のお客さんが終わったところだった。
「オトちゃん今日はもう帰っていいわよ。彼氏も来てることだし」
 多岐さんがシッシッとするように手をヒラヒラさせた。
 僕とオトはマンションを出て、どちらともなく初めて手を繋いだ。新宿のネオンの海を、泳ぐように歩く。
「タスケ、竜宮城が見える場所に行こう」
 オトが言った。僕らは西新宿にある高層ビルの一つに入った。ビルの上にある展望フロアまで、一気にエレベーターで上がる。子供みたいに窓に駆け寄り、新宿の街を見下ろした。
「いつもは一人でここに来るの。見て、窓の外が海みたい。このガラスの向こうは  新宿の海で、あの夜景は海の底にある街の灯りなの。竜宮城みたいでしょ」
 竜宮城がどんなのかわからないけど、窓の外は本当に海みたいで新宿の街をゆらゆらと歩いている人達はカラフルな熱帯魚みたいだと思った。
 そういえばずっと手を繋いだままだ。意識したら急に手に汗をかいてきた。僕はオトの横顔をそっと覗き見た。キレイだなぁ。ふっくらとした唇に目がいく。
「キスしていい?」
「やだ」
 速攻で返され、僕が言葉に詰まっていると、オトが繋いでいた手を放し、両手で僕の顔を包み込んだ。僕の唇にオトの唇が重なる。それから僕らは、今までずっとしたかったのを我慢してたみたいに、何度も何度も、互いの唇を啄むように、鳥みたいなキスをした。
 ここは海の底みたいだ。僕はオトに溺れてる。

 その日、僕は家に帰ってベッドに寝転がりながら、展望台でのキスを反芻し、オトのことを考えた。親が緊縛師なんていう仕事をしてたから、縛りにこだわるんだろうか。
 布団に潜る。僕の人生とは全然違うな。実家暮らしで親も健在だし。家に帰ればご飯もあるし。一人で暮らすなんて考えたことなかった。
 親が急にいなくなるってどんな気分なんだろ。一人残されたオトを思い、せつなくなった。

 その夜、僕は夢を見た。顔も知らないオトの父親が、誰かを縛ってる。僕は見たくないのに、すごく見たい。知りたくないのに、すごく知りたい。思い切って縛られている人の顔を覗き込んでみる。オトによく似た誰かが、太郎と同じ赤い組紐で縛られていた。縛られて泣いてるんじゃないのかな、と思ってたのに、その女の人は微笑んでた。幸せそうに。

「オトは、なんでいつも縛ってるのかな」
 僕は一人言みたいに言った。
「それ、前にも聞かれた」
 そっけなく返すから、それ以上言えなくなって、うつむいた。オトはいつものように手を動かしながら、横目で僕を見た。
「大事だからかな」
「大事?」
 オトはゆっくりと僕が持ってきたクマのぬいぐるみを亀甲縛りにする。
「わかんない。大事なものだから縛るのかなって、ちょっと思っただけ。なんで縛るかなんか、わかんないよ。だから多分…わかるために縛ってるの」
「それは、お父さんやお母さんと関係あるの?」
 オトは驚いたように目を見開いて、
「ああ、多岐さんか」
 と呟いた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9