小説

『うし若とベンケー』島田悠子(『牛若丸と弁慶の逸話』)

 両手を広げ、うし若が7階から飛び降りた。その一秒もない瞬間がどれだけ長く感じられたか。
「うし若!」
 全身に鳥肌が立ち、ベンケーははじかれたようにかけ出した。うし若の落下地点まで走りこんだのと、落ちてきたうし若を抱きとめたのとは、ほぼ同時だった。二人は抱き合うようにして砂場に転がり込んだ。そこに砂場があったから事なきを得たものの、なんてことをするんだ、こいつは! 心の中でうし若を叱責したベンケーだったが、現実では絶句していた。すると、
「お前だから飛べたんだ。ベンケー」
うし若はそんなことを言う。
「さっ、見つかる前に行こう!」
 うし若の言葉がベンケーの心に刺さって、甘くうずいた。うし若はさっさと走り去った。その足の速さは並ではない。とても女子には追いつけないスピード。彼はその一歩一歩の飛距離が生半可ではないのだ。気を抜けばすぐにひきはなされる。体格がよく足の長いベンケーですらついていくのがやっとだ。うし若のアツすぎる信頼にハートがウォーミングしている場合ではない。
 ゴミだらけの裏路地を抜け、ネコのように壁の上を渡り、ときに民家の屋根づたいに走って五条まで。うし若とベンケーは正門ではなく裏門を目指した。今日の正門は人間はもといネコの子一匹通れるような状況ではないだろう。でも、裏門なら。その存在を知っている者は少なく、昨日、ベンケーが扉をぶち破っていなければサビついたチェーンと錠前で固く閉ざされたままだった。ここには勝算がある。

 しかし、淡い期待は打ち破られた。裏門もチョコを持った女子であふれかえっていたのだ。裏をかかれた。裏の裏をかくべきだったか。しかし、その裏の裏の裏をかくという作戦も有効なはずで……。
「ベンケー、どうする!」
 ベンケーははっとした。今は前を向き、この状況をどう打破するかを考えるとき。
「かくなるは!」
 ベンケーは叫び、両手のひらを組んでうし若を見た。うし若もそれが何かわかったようで、
「ベンケー、無事でな!」
 そう言うと助走をつけてベンケーの手に飛び乗った。同時にベンケーは思いっきりうし若を投げ飛ばす。うし若は高く高く宙を舞った。両手を広げて笑った彼は、まるで自由に空を飛ぶ鳥のようだった。うし若は裏門の向こう側へとひらりと着地し、校舎へと走って行った。チャイムが鳴る。ベンケーは裏門の前に立ちはだかり、両手を広げた。ここで自分はどうなろうとも、体をはって女子を食い止める。うし若のために! ベンケーの決意はダイヤモンドのように硬かった。
「通すわけにはいかない! 一歩たりとも!」
 目当てのうし若を逃しても、女子たちの瞳は輝きを失わない。
「このチョコをうし若様に渡してください!」「このチョコをうし若様に渡してください!」「このチョコをうし若様に渡してください!」「このチョコを」以下エンドレス、略。リボンのかかった数え切れないほどの小箱がベンケーの全身につきつけられ、鍛え上げられた肉体にこれでもかとくいこんだ。
「ぐはぁっ!」

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