小説

『河童の国』佐々木卓也(『河童』)

 喫茶店に入るとジャズが聞こえてきた。薄暗い壁際から溢れるピアノの音は誰の曲だろうか?どこかで聴いた気がする。やがてそのリズミカルな音は、闇に吸い込まれるように消えてしまった。
 店の僅かな照明の筋も失われている。停電によるものではない。外にある蛍光灯が隣の床屋を青白く照らしている。やがて店内に文字が読める程度の明るさが戻った。
 その時ぼくはホテルへ行く途中だった。修学旅行の初日に体調を壊して二日目から皆と合流することになっている。学校の指定したホテルで待機しなければならない。
 ぼくは決められたホテルに行く前に駅ビルに立ち寄り、約束の時間になるまでの間喫茶店で修学旅行の行程表を読んでいた。でも独りで別行動をしていると自分が帰還場所を失くした軍人になったような気がした。窓越しに広がる駅前の情景も、人生の最後に眺めることを許された一場面みたいだ。
 店の入口では床から一段上のカウンターで、和服姿の老婆がレジの売り上げを点検している。慣れた手つきで一万円札をめくり、それを束ねると隣の五千円札を掴み同じ作業を繰り返した。彼女はぼくと目が合うと、レジの計算を中断して手招きをした。ぼくは何かに引き寄せられるようにしてカウンターへ向かった。
「どうかしましたか?」
 老婆は一瞬瞼を閉じてからぼくの右手首を掴んだ。強い握力で手錠を絞められたような感触がある。ぼくは何か言おうとしたが声は出なかった。彼女の細長い指がぼくの右手首から離れると、そこに文字が付いていた。
「ちゃんと張り付いたね」
 老婆は満足気にほくそ笑んでいる。
「Kappaって書いてありますね」と言ってぼくは右手首を彼女の顔に近づけた。アルファベット5文字の『Kappa』だ。緑色でハッキリと目立つタトゥーになっている。老婆はそれには答えずにレジの計算を再開した。
 やがて彼女はレジの脇から一枚の紙を引き抜き、黙ってぼくの前に差し出した。それは喫茶店のある駅ビル周辺からホテルまでの案内図だった。老婆がレジに鍵をかけるとガチャリと音がして、今度は聴いたことのないジャズが流れだした。
「そこにホテルが載っているよ」彼女は尋ねてもいないのに、知りたかったことを教えてくれた。
 ぼくは食べかけのイカ墨入りパスタを残して店を出た。駅ビルを出て20分程歩くと、老婆のくれた案内図の印と同じ場所に学校の指定したホテルがあった。くすんだ桜色の横に長い建物で、看板がなかったらマンションと間違えそうな造りをしている。屋上にある看板に『デジャヴホテル』と表示があった。
 修学旅行の行程表にあるものと同じ名前だ。
 ぼくは自動ドアの中へ入った。
 フロントには誰もいない。
 カウンターの呼び鈴を鳴らすと、チャイム音が同時に何度も繰り返された。だがいつまで待っていても従業員は現れなかった。
 フロントの奥を覗くと狭いスペースにスーツケースが散乱している。やがてそれらを掻き分けるようにして背広姿の中年男が出て来た。営業マンみたいな顔で床屋のモデルになれそうな髪形だった。キッチリと両脇とも耳の上で斜めに揃えられている。最近床屋へ行ったのだろうとぼくは思った。

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