小説

『シャフリヤールの昼と夜』里中徹(『アラビアン・ナイト』)

 新聞に視線を落としたまま、なんでもないことのように明里は言った。
「『父さんな、大事な人ができたんだ』」
「だから違うって……」
「『恋のはじまり、それは晴れたり曇ったりの四月のよう!』」
「それもシェイクスピアか?」
 明里は小さく笑うと、顔を上げてこちらを見た。
「冗談。で、なんなの?」
「二ヶ月後に転勤になるんだ」
 久しぶりに見た明里の笑顔が、また消えてしまった。
「……そう。遠いの?」
「少しね。千葉なんだけど」
「はあ?」
 俺の言葉に、明里は呆れたような声を上げた。その反応をどう取ってよいか分からず固まっていると、やがて明里はため息をついた。
「どこが遠いの? 電車ですぐじゃない」
「千葉市じゃないぞ、船橋だ」
「全然変わらないでしょ、余裕で東京来れるじゃん」
「まあ、そうだけど。明里にはいちおう報告しておこうと思ってな」
「お母さんにも伝えとく?」
「いや、いいよ」
「面会は?」
「え?」
「面会はこれまで通りするの?」
「ああ、もちろん。明里さえ良ければだけど」
 そこまで聞くと、明里は興味を失ったようにまた新聞に目を向けた。
「だったら何も変わらないじゃん。お父さんの職場事情とかどうでもいいよ」
「すまんな、恋愛相談のほうが良かったか?」
 そのあともぽつりぽつりと会話をしつつ、二人がコーヒーを飲み終えたタイミングで面会はお開きになった。コーヒーショップを出ると、夜の七時前なのにずいぶんと明るい。まだしばらく夏は続きそうだ。
「じゃあね」
「明里」
 明里は俺と違って地下鉄だ。いつもどおり駅に向かって歩き出そうとする明里を、思わず呼び止めてしまった。
「なに?」
「また二ヶ月後くらいに会ってくれるか?」
「……なんでそんなこと聞くの? いつも会ってるじゃん」
「いやまあ、そうなんだけどな」

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