小説

『シャフリヤールの昼と夜』里中徹(『アラビアン・ナイト』)

 彼女が帰ってからはチェックアウトをするのも面倒で、そのまま眠ってしまった。結局起きたのは午前八時前で、もう休憩でなく宿泊扱いの時間になっていた。
金曜の夜だからって油断しすぎた。窓を開けると、外は思っていた以上に晴れている。すりガラス越しに外が少し暗く見えていたのは、隣に背の高いビルが建っているせいだ。隙間から覗く空は青くて、雲が眩しいくらいに白い。
 スマホを見ると、チャットアプリの通知が来ていた。新着メッセージが一件。ミズキさんからだった。
『今回もありがとうございました。なんだかそわそわしてましたけど、もしかして週末はデートですか? 暑いですけど、体調崩さないで下さいね。』
 ちょうど良い距離感の文章がいかにも彼女らしい。少し考えて、返信のテキストを打つ。
『ミズキさんも身体に気を付けてください。私はこれから可愛い女の子と会う約束があります。』
 冗談めかした文章をひと通り打ってみたものの、送信ボタンは結局押さなかった。ミズキさんからすれば何人もいる客の一人に過ぎない。俺からの返信なんて、気にしているわけがない。
 それでも。
――次はどんな話をしましょうか。考えておきますね。
 別れ際のその言葉で、俺はまた彼女を指名してしまうだろう。

 
 ホテルから出たその足で、待ち合わせ場所の丸の内のコーヒーショップへ向かった。約束の十時まではまだ三十分以上時間があったが、他にやることがあるわけでもない。ホットコーヒーを注文して、先に席に着いてしまうことにした。
 コンビニで買った経済新聞を片手にコーヒーを啜る。貿易戦争、金融緩和、FRB、M&A――目に入る単語はどれもスケールが大きすぎて現実感がない。こういう問題を日々相手にしている人たちがいる。俺のように目の前の些末なことに追われている身からしたら、そんな世界は目眩がしそうだ。
「お父さん」
 声を掛けられて振り返ると、明里がコーヒーを持って立っていた。
「お、来たか。席ここで良い?」
「別にどこでも良いよ」
 するりと俺の目の前に座ると、明里はすぐにコーヒーに口をつけた。
「ごめんな、せっかくの休みに」
「今更すぎるでしょ、何回目よ」
 挨拶代わりの一言でさえ、ぴしゃりとはねつけられてしまった。それでも連絡をすればちゃんと返信をしてくれて、時間を作ってこうして会ってくれる。これ以上なんて望めるわけもない。
「受験は来年……だっけ?」
「来年だよ、自信なさそうに言わないでよ」

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