小説

空蟬の街』広瀬厚氏(『幻影の都市』)

「あっ… 大きな声で話しすぎたかな、ごめんなさい」
「べつに謝らなくても… で、まっ、聞こえたんだけど妊娠してる女が飛び下りたんだって?」
「そうそう、朝から大変騒がしかったじゃないですか。あっ、坂口さんは部屋にいなかった? と … 」
「あっ… ああ。それで?」
「またまたそこのマンションですよ。それも例の噂の女が、真夜中に十階の自分の部屋のベランダからだろうって、朝まで気づかれず、夜が明けてたまたま通りかかった人が通報したって、それがなんでもお腹に子供がいたって」
「そうなんだ… ちょっと気になったもんで。ありがとう」
 彼は大変にだらしのない格好をしていたが、そのままアパートを外に出て、暮れゆくなか北東に建つマンションの十階を見上げた。空に一番星が光った。もう女は空蟬にいない。
「きっと、夢か現か白く閃光を放ったあの時だな」
 彼の口から無意識に言葉が出た。急に言いようのない大きな悲しみが彼を襲った。なぜそんなに悲しいのか彼自身これっぽっちもわからなかった。ただただ、この世のすべてが悲しくなった。からっぽの世界に彼はひとすじの涙を流した。けれどもすぐに、大きなあくびをして道につばを吐いた。
 彼は、酒やらインスタント食品やらなんやら、仰山買い込んで部屋にこもった。昼でもカーテンを閉めきった。外の明かりを見たくなかった。外の空気を吸いたくなかった。外の世界から自分を隔離した。タブレット端末を手に持つこともなく、ネットの世界も遮断して、ひたすら自分の内にこもった。
 空き缶やらインスタント食品の容器やらゴミやら散らばって、狭い部屋の中は荒れに荒れた。彼はと言うと、時間はまったく関係なく飲んで食って吸って寝て、あとはひたすらぼんやりと、生気を吸い取られたもぬけの殻のごとくであった。
 この世を去ったあの女が宿していた子は自分の子であったのでは? 決してそのような関係はなくとも、おかしな話ではあるけれど、彼にはそんな気がしてしょうがなかった。女の宿していた子が、自分の中にまだわずかだが残っていた気力の結晶だったとして、勝手ではあるけれど彼には感じられた。
それは白い閃光を放ち女と共に空蟬を後にした。
 部屋にこもって何日ぐらいたっただろうか? 廃人同然となり果てて、彼はカーテンをそっと開けてみた。夜明けか夕暮れか、薄暗い光が部屋に入った。と、忽然外に出る気が彼に起こった。ボサボサの髪に無精髭、まるで着の身着のまま放り出されたように彼は、おぼつかない足取りで部屋を出た。

 みんな嘘っぱち、なにもかもが俺をだます。アスファルトにコンクリート、プラスチックの残骸、人工物が群れをなして必死に真実を隠している。
 銅の街路樹に緑青の葉がつき、コールタールのカラスが寄ってたかってゴミをあさる。どう言った罪なのか、野良猫は囚われ無慚に殺処分される。
 なんなんだこの空は? 昼でない夜でない、かと言って朝方夕方でもない、陽もない月もない星もない何もない、ただ薄暗く、どこか赤紫がかって………。
 彼はアパートの外、歩道ですぐに立ち止まり、ゆっくり辺りを見渡してから空を見上げた。そして北東を向いて、十階建ての古いマンションを、ぼんやりとどこに焦点を合わせるでもなく白痴のように眺めた。

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