小説

空蟬の街』広瀬厚氏(『幻影の都市』)

 彼が足をとめ思惟にふけっている間に、涼らしき涼らしからぬその男は、彼の視界から姿を消していた。彼は、もやもやした気持ちで、夜の帳が徐々に下りゆくなか、酒を買いに歩きはじめた。なんとも不吉な予感が彼の心にきざしていた。
 すっかり暗くなっていた。アパートへ帰る途中彼は、酒の入った袋を手にぶら下げながら、吸い込まれるように、例のマンションのエントランスを入った、セキュリティも糞ったれもありゃしない、壁にひびが入るずいぶん草臥れた古いマンションだ。誰でも勝手に出入りすることができる。そして時折誰かしら、そこの上から地面に飛び下り潰れる。
 彼は、今までそのエントランスをくぐったことは一度もない。住んでいるわけじゃない。知り合いがいるわけじゃない。とくに用事もない。当然と言えば当然である。もしエントランスをくぐることがあるとすれば、このマンションの上から地面にダイブする時だ。と、これまで彼は漠然と考えたことが何度かある。そのエントランスにまるで吸い込まれるように中に入った。
 ずいぶんLEDが幅をきかすようになった昨今にあって、通路ではところどころ切れかかった蛍光灯がジージー音を立てている。彼は痺れた頭でふらつくように、意味なく一階から通路を歩いていった。玄関から出てきた住人が怪訝な顔をして彼を見た。階を上がるのにエレベーターの他に、ところどころ錆びが醜い線を引く、銀色の螺旋階段が通路の外に出っぱってあった。彼はそれを上って次の階の通路をふらりふらりと往復した。往復しては次の階また次の階と、一階一階順に上っていった。
 七階に上がる途中ふと、例の色の白い噂の女はどの部屋に住んでいるのだろう? と頭をかすめた。女と出くわしてみたく思った。けれども女の住むのは、すでに通り過ぎた階の部屋かもしれない。
 七階に上がって初めて彼は、通路の塀から下を見た。空蟬を脱するには充分な高さだ。塀にのせた彼の手に力が入った。その時背後でガチャリと玄関の開く音がした。彼の方寸に女の肌が白く電灯する影が映った。さっと振り向いた。が、かの女でなかった。代わりに玄関から出てきた中年男は、いかにも訝しんだ細い目つきで彼を一瞥した。
 最上階まで上がった彼はそこから夜空を見た。月も星もなにもなかった。ただ虚しく燻った暗闇が、だらしなく広がっていた。いったい俺は何をしているのかと、彼の心がしらじらとした。すべてが馬鹿らしくなった。生きるも死ぬもどうでもよく思えた。彼はエレベーターを使って下におり、マンションを出てアパートに帰った。
 なにもかもどうでもよくなったつもりであったが、彼はアパートを出た時に見た、涼らしき涼らしからぬ男のことが妙に気になって、一晩中眠れず朝まで酒を飲んだ。

「ちょいちょい飛び下り自殺のあるあの古いマンションに住んでる例の滅法色の白い女なんだけどよ、近ごろちょいと小耳に挟んだんだけどさ、なんでも孕んでるって話だぜ」
 一杯飲み屋のカウンターを前にして、なんだかわからぬ臓物をつまみに、彼がちびりちびりとコップ酒を飲んでいると、となりでひとり飲んでいた、ここらで下世話な情報通としてちょっと知られる、初老で前歯の抜けた労働者風な男が話しかけてきた。彼は飲み屋で何度かこの男と話したことがある。
「はあ… 」と前を向いたままに、彼は短く応えた。
「はあ、って兄さん確かあのマンションのそばのアパートに住んでるって前に言ってたよな」
「ええ」

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