小説

空蟬の街』広瀬厚氏(『幻影の都市』)

 彼は夜毎タブレット端末を両手にごろり寝ころび、ネットにあふれる猥雑な女の裸体を飽きることなく舐めまわすよう見つめるか、そうじゃなければ、これまた雑音と紙一重な音楽の動画をイヤホンをして目に耳にしながら、電子タバコをくわえ吸うじゃなければアルコール度数の高いストロングな缶酎ハイを朝までずっと飲み続けるのである。
 彼は、毎日の自堕落な生活に可も不可もつけず、無味無臭な飲料をただ何となく意味なく喉に流すかのよう行住坐臥する。
 彼の住まうアパートの北東に十階建ての古いマンションが建つ。何の因果か知れないが、ちょくちょくそのマンションの屋上やらベランダやら通路の塀を乗り越えて、人間が地面に飛び下り潰れる。潰れた人間は、マンションの住人のときもあれば、何故にここから? と、まったく無関係な者も多い。
 彼の部屋の窓からそのマンションが見える。彼は、偶然にもいくどかマンションから落ちる人影を、安物のサッシュのうちに見ている。そのたび毎に、常なき空蟬の世をいま去らんとするダイバーを羨む思いが、彼の心にふつり湧きおこる。
「次は俺が飛んでみようか…… 」
 彼が感慨にふけっていると、どこからかサイレンの音が聞こえ、しだいに近づき高まってゆく。サイレンの音がとまる頃、彼の感慨はすっかり冷めきって、地面に潰れ血に染まる憐れ木偶人形を思い蔑む。大きなあくびが決まって彼の口をでる。

 彼は夜の十時過ぎ、ふらりアパートを外に出た。もう充分に酔っていた。千鳥足に見上げた、弦月に薄雲がかかった夜空が、酔いも手伝って彼の目に幻想的に映った。
 例のマンションからひとりの女が出てきた。長い黒髪から覗かせた女の透き通るほどに白い頬が、まるで夜に電灯してるかのように彼には見えた。
「噂の女だな」ぼそり彼は言った。
 それはあくまでも噂話であるが、マンションにひとり暮らすこの女と関係をもった男は皆、生気を吸い取られたもぬけの殻のごとくなってしまう。そしてそのたび毎に女の肌は蓄電したかのように、妖しく白さを増してゆくと言う。彼も二、三の知り合いからそんな話を耳にしていた。
 女は彼と向かいに歩いてくる。すれ違いざま彼は興味本位に、酔った怪しい呂律で、ちらと上を向き言った。
「こんばんは、妙な月あかりで」
「ふふっ、そうね」
 すれ違い、後ろから聞こえた。と、彼は全身に非常な寒気を覚え、ブルルと震えた。のちにグツグツと得体の知れない興奮が湧きおこり、振り返った。が小道に入ったのか、既に女の姿はそこになかった。
 それまでの酔いが急に覚めたかのよう彼の足どりは確かとなった。途端さまざまな雑念が彼を襲い憂鬱とさせた。千鳥足に戻りたく、彼は確かとなった足どりを、安酒場が軒を連ねる路地裏へと向かわせた。なまぬるい風が街に吹いた。
「まったく退屈な街だ」「チキショウメ」「ヘドが出る」「くだらねえ」「ウンザリだ」「もうたくさん」「ケッ」
 歩きながら次から次へと誰に言うでなくブツブツ彼の口を出た。路地裏へ入った途端、同じようにブツブツ愚痴を吐く酔っ払いとすれ違った。彼は、みずからを省みずそれを蔑んだ。

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