小説

『裏島物語』高崎登(『浦島太郎』)

 頭が舳先に立ち、鯛に刃物を入れる。滴る血が、ほの暗く映える水面を赤い点で汚した。血の雫がつくり出した輪郭は、得体の知れない海の生き物のようにも見える。二年前にその異形を見たとき、これはカミの姿かとおかめは思ったものだった。
―ああやって並んで立っているところを見ると、ほんとの夫婦みたいだべ。
―父娘であってもおかしくないべな。
 後ろの船から軽口が聞こえる。おかめは無表情を決め込んだ。
 三平の口元が少し緩む。
 遠い山上には月が浮かんでいる。二年前、あの日も月はかかっていた。
 あのときの太郎は、どこへ行っただ? お前は見てただろ?
 心のなかで、おかめはそう問わずにはいられなかった。

「何でカミが怒ると船が転がるんだ?」
 盥の貝を吟味している流人に、おかめは聞いてみた。
「怒ったから不幸になるわけじゃない、怒らせるようなことをしたからだ」
 流人はおかめの疑問より、魚の調べに真剣だ。
「じゃあ、ぬさをあげたらカミの怒りが収まるのはなんでだ?」
「お前さんは欲しいものをもらったらうれしくないのか?」
「カミはえらい存在のはずだべ、欲しいものもらって喜ぶんじゃ、人間と一緒じゃないか」
 流人はうるさくなったのか、あきれるように笑うだけで何も答えない。
「それだけ元気になれたら立派なもんだ」
「はあ?」
「カミに文句を言うほど元気なやつは、都でも見たことない」
流人は銅銭をおかめに渡しながら、そう言った。
「俺もいつまでも力を貸してやれんからな」
「え」
「そろそろこの村ともおさらばだ」
「帰るのか」
「ぬさの効果が表れたみたいでな、こっちはえらいカミじゃないから高いもんさ。贈り物は地道にしておくもんだぞ」
「うちの人が、待ってるものな」
おかめは目を細めて言った。都で待つ流人の妻と子の姿が思い描かれた。
「お前さん、どうする? 俺というクチがなくなれば困るだろう」
「それがなきゃ餓えるわけじゃないべ」
「どうだ? 都に来ぬか? クチを見つけてやってもよいぞ」
おかめは一瞬考えた。が、首を横に振って明るく笑った。
「もう魚と一緒だ、都なんかで息できると思えねえ」
おかめの返事を聞くと、流人はそれ以上何も言わなかった。
「そういえばこの間、お前の坊主とたまたま会ってな、おもしろいこと言ってたぞ」
「なんて」
「おらのおっとうは死んでねえ、魚のいっぱいいるおもしろい国へ旅に出かけて、そこで精を出している。そのうち土産をたくさん背負って帰ってくるんだ、とな。もちろん、かかあの受け売りだろうが」
 おかめは流人から目をそらし、松林の梢に目を向けた。一羽の鶴がとまっている。

1 2 3 4 5 6 7 8 9