小説

『裏島物語』高崎登(『浦島太郎』)

「言ったろ、おっとうはいま忙しいって。それに、ずっとずっと遠い、あのお日様の近くまで魚取りに行って、偉い人に頼まれて漁に精を出してるんだぞ。だからお前も、いい子にしておとなしく待つだ」
「そこ、どんな国だ」
「魚がいっぱい泳いでいる、にぎやかな国だ」
 おかめは、太郎がいなくなって以来、息子に言い聞かせている話を繰り返した。小太郎に言いながら、自分にも言い聞かせた。心に刻み、明日の漁の力にするために。
 黒い松林に母子の姿が隠れた。夜は静かに海の村を包もうとしている。

 三平との漁生活は、おかめを暗くさせ、やつれさせるばかりだった。
 三平は地元生まれの漁師で、年は50を過ぎ、年老いた母とふたりで暮らしていた。この地では珍しく、海人の手法で魚をとっていた。女房と組んで海人をやっていたが、十年前に先立たれて男やもめになったのである。その後は網漁に切り替え、イワシやタイを捕って母とふたり、ほそぼそと暮らす日々だった。
「海人をやらないか」と三平に誘われたのは、太郎を失い途方に暮れていた矢先のことだった。素潜りのほうは俺がやる、お前は縄を引いて浮き上がるのを手伝ってくれればいい。お前も船がなければ漁に出られないだろうし、ましてろくに道具も触ったことのない身、そんな状態で魚を捕るのは無理がある。お互い得のある話で、損はないだろう。
 そのときはおかめも、ただ親切で三平が手を貸してくれると思い、やると決心した。せまい漁師村のこと、三平は見知らぬ顔ではない。太郎からも、三平は義理堅い男だと聞かされていた。何より、その話に乗れば路頭に迷わず食い扶持を押さえることができる。おかめにとって断る理由は見つからなかった。
 それが世間知らずからきた甘さだと気づくまで、さほど時間はかからなかった。おかめからすれば、三平など男のうちに入らなかった。ただ朽ち老いていく体など、どこを見ても意識しようがない。だが三平は違った。
 若い女と一日船に乗る生活を送れば、いやでも欲情がそそり立ってくる。船に乗り出してまもなく、三平のなめるような視線をおかめは感じ取るようになった。あいつが自分の腰つき、胸元、膝小僧に目を送ってくるたび、汚い舌で舐められるような気持ち悪さを覚えた。ふたりきりになるのは嫌なので、小太郎を一緒に乗せることにした。それでも、三平の呼吸する場所にいるのは息苦しい。
 三平の陰湿なところは、堂々と迫らず、影で企みを演じるあたりにあった。それがおかめを余計にうとましくさせたのである。先だっての厠騒ぎのようなことは、以前からいくらでもあったのだ。
 いやらしい眼をぶつけてくるくらいなら、まだよい。これは手に負えないと思いはじめたのは、三平が自分を女房にしたがっているということに、察しがついてからである。
 そんなきな臭い男の気持ちを、おかめはここ最近とくに強く感じるようになった。三平はしきりに、年よりの母親をダシに使っておかめの同情を誘おうと試みる。うちの母はもう長くない、だからはやく安心させたい。俺がひとりでいるのを心配し、このままじゃおめおめとあの世にいけないと愚痴をこぼす、だからすぐにでも所帯を持たねば、と言うのである。まったくもって、おかめの知った話ではなかった。
 子どもたちのからかいは、おそらく大人たちの噂を受け売りしただけだろう。火元はほかでもない三平に違いなかった。
今では、一日もはやくこの男から解放されたいと願っている。はやく自分で船を買えるだけの銭をためなければならない。が、そう簡単にこの男がそれを許してくれるとも思えなかった。
「お前もそろそろ、トマエやれるべ」

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