小説

『みせもの』ひろくん(『鶴の恩返し』)

 珠子は目を閉じて考えた。
 気付けばエレベータには誰も居なかった。知らないうちに、一階に止まっていた。

 何も目標もないまま、半ば追い出されるような形で珠子は病棟を退院した。暦は3月だった。

 ひらひらと雪が落ちている。綿雪だ。雨になったり、雪になったりする冬の終わりの気候のせいで、珠子の気管は狭くなる事が多かった。一度そうなると、咳が止まらず肺が痛む。
寒い日の外出は、マスクをしてもなお、冷たい空気が射し込んで来る。珠子はマフラーで保温する事を大切にした。
 抗癌剤を初めてからしばらくして、副作用で珠子の毛髪は抜け落ちた。まだらになった頭の毛を、珠子は手櫛で梳いてはゴミ箱に捨てた。手の中でのたうち回る髪の毛を見て、珠子は医療用ウィッグを買おうと思った。一刻も早くこの頭を隠したかった。

 通販で届いた物はネットの付いたツヤツヤのおかっぱだった。カタログのイメージと違っていたが、珠子は、日本人形のような顔立ちだった為、被るとそれが妙に様になった。
 ウィッグの上からニット帽を被ると、今まで嘘っぽかった髪の毛も、まるで本物であるかのように錯覚する。珠子は、嘘を嘘で固める事が楽しかった。
 職業安定所に向かう途中、珠子の足は再び痺れた。その感覚はまるで砂利に足を突っ込んでいるようだった。
待合室の椅子に腰かけると、職業相談コーナー周辺には、たくさんの人が並んでいて珠子はげんなりした。仕事は欲しいが自分の経歴を根掘り葉掘り聞かれるのが煩わしいと感じた珠子は、受付で求人情報を調べたい旨を告げた。そして、自分の番号の割り当てられた端末の前に座った。
 タッチペンで画面を操作し、年齢を書き込む。
 希望条件を選択しようとしたところで手が止まった。
 したい仕事がなんにもない。珠子は残された時間を有意義に過ごしたいと思う反面、ここで「普通」に仕事を探しているフリをしていたかった。
 珠子は足の痺れに加えて、手の甲の痛みを感じた。さっきからタッチペンで画面に触れる度、骨が痛むのを感じた。珠子は検索を止め、トイレに駈け込んで医療用麻薬を一包飲んで痛みを静めた。
 幸子の乳癌が再発した春、珠子は幸子に連れられ、近所の桜まつりに行った事がある。幼い珠子には、母がどうして急に桜が見たいと言い出したのか、理由がわからなかった。珠子は桜よりも、出店を見て回るのが楽しみだった。
 今となって察しがつく。母にとっては、あれが最期の桜だった。
 桜の咲く公園内を一巡し、幸子は歩き疲れた珠子にアイスを買ってあげた。棒付きの、安いソーダの味だ。
 見世物小屋と呼ばれる場所に訪れたのは、それが最初で最後だった。
 おどろおどろしい音楽と、太鼓の音。赤、青、黄、緑といった原色の縦縞が映える巨大なテントがそこにあった。

 寄っててらっしゃい見てらっしゃい。

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