小説

『ふりゆくものは』新発田瞳(『雪女』)

 楽しい時間はあっという間だ。食事が済むと、巳之吉は部屋の奥、すなわち最も隙間風の当たりにくい場所にお雪の布団を敷いてやり、自分の布団は囲炉裏を挟んで反対側の戸口に敷いた。
「わしは朝から猟に出るすけ早く起きるが、お前は疲れておるじゃろう。わしのことは構わず、気の済むまで寝ておけ」
 布団に横になると、巳之吉は戸を向いたまましゃべった。
 いざ夜ともなると、さすがのお雪も巳之吉を怖がるかもしれない。目を合わせて悲鳴でもあげられてはたまらないと思ったのだ。お雪がどんな様子でいるのかは非常に興味惹かれたが、ぐっとこらえて背を向け続けた。「ありがとうござります」と小さく聞こえる。
 背中を向けているゆえ、相手が寝ているのか起きているのかさえ分からない。声をかけるのも憚られて、巳之吉は一人落ち着かない気持ちと戦い続けねばならなかった。
 そのうち鳥の鳴き声に目を覚ましたが、いつ寝付いたものだかはっきりとしなかった。随分長いこと今にも壊れそうな戸を見つめていた気がするのだが、全く覚えていない。
 お雪はまだ眠っている様だった。巳之吉は食事を済ますと、残った飯をよそい、お雪の畳んだ上着の傍らに置いて山へ向かっていった。本当ならば彼女が行ってしまう前にもう少し話してみたかったが、気の済むまで寝る様に言ったのは自分だ。仕方がなかった。

 家に帰った巳之吉はキツネにつままれた様な心持であった。
 なぜならとっくに出て行ったはずのお雪が、ちょこんと座って巳之吉を待っていたからである。
「お食事のご用意をしておきました。私からのお礼にござります」
 確かに家に近づくにつれいい匂いがするとは思っていたが、まさか自分の家からとは思いもしなかった。呆気にとられて鍋を見ると、色とりどりの野菜に肉、なんと味噌まで入っているではないか!
「この野菜や肉はどこから……味噌も家にはなかったはずじゃが……」
 見たこともない豪勢な料理に面喰いつつお雪を振り返ると、お雪の着物が色の褪せた、随分質素なものに変わっていることに気が付いた。
 まさか、と思ったが案の定。お雪は元々着ていた上等の着物を売り、村の女と変わらぬ安物を買って、余った金で肉や野菜を調達してきたのである。
「お口に合えばいいのですが」
 相当損をしただろうに、お雪は一向構わない風である。
「美味そうじゃすけ口には合うじゃろうが、お前はいいのか」
「お気になさらないでくださりませ。私はあなた様にそれほど助けられたのですから」
 旅籠に泊まってもこれほど高くつかないだろう。金持ちの考えることはよくわからないが、目の前の御馳走を拒めるはずもない。差し出された器を遠慮なく受け取り、微笑みながらこちらを見守るばかりのお雪に「お前も食えよ」と空いている皿を渡してやった。
「いかがでござりますか」
「うん、美味い美味い。こんなに美味い飯は初めてじゃ」
 事実美味い。食材の良さだけではない、野菜の切り方、具材の塩梅、味噌の加減……すべてが完璧に計算され尽くしていたのだ。巳之吉の母親は彼を産んですぐに死んだので、これが初めて味わう女の手料理だった。
「ところで巳之吉様」

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