小説

『あの日の情景』太田純平(『黄金風景』)

 私は「これをやったらウケるだろう」という実に短絡的なノリで、教室に消えた下川の後をすぐさま追った。そして下川が席につくや否や、いきなり、彼女のルーズソックスをずり下げてこう言った。
「なにお前が履いてんの?」
 彼女はおちょぼ口を尖らせたまま、何も答えなかった。
 その表情は恥ずかしそうでもあり、怖がっているようでもあり――。
 しかしそんな光景を見ていた同級生達は、一斉にドッと笑った。
 教室にいた連中のみならず、廊下から覗いていた女子さえも――。
 この空間では今、ルーズソックスをずり下げた私が「面白い人」という名の「正義」であり、勇気を振り絞ってルーズソックスを履いて来た下川が「悪」なのだ。
 その翌日以降、下川がルーズソックスを履いて来る事は一度もなかった。
 これが、私が生涯忘れる事はないであろう「ルーズソックス事件」の概要である。

  ×   ×   ×

 ああ――。
 あの下川が今、このフロアに――。
 私はしばし、買い物カゴ置き場の前で呆然としていた。
 私は二十代の後半あたりから、そういう自分の犯してきた数々の罪に対して、いつか謝罪行脚に出たいという気持ちを抱いていた。
 いや、実際には心の中でそう思っているだけで、実行する勇気などまるで無い事も分かってはいるのだが――。
 とにかく私は、下川に対して「謝りたい」という気持ちと、歳月を経て彼女がどう変わったのか見たいという好奇心と、他の小さな感情とがごちゃ混ぜになりながらも、買い物カゴを改めて持って、フロア内を歩き始めた。
 順路に従って、青果コーナーから、精肉コーナーへ。
 そこでステーキなど牛肉のパックを幾つかカゴに入れて、次は鮮魚コーナーに行くか、調味料などの棚の方へ行くか迷っていると、思わず私は目を見開いた。
 いた。
 下川だ。
 正確には、下川親子。
 四歳くらいの娘を一人連れている。
 おちょぼ口こそ相変わらずだが、彼女はすっかり親の顔になっていた。
 娘が意味もなくジャンプしたのを見て「おお~」なんて笑っている。
 ああ。見るからに幸せそうだ。
 私は急に恥ずかしさやら恐ろしさやら感情の荒波に襲われ、思わずその場から逃げ出そうとした。
「山本!」
 さっき聞いた声だ。

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