小説

『ダニー・ボーイ』森な子(『ダニー・ボーイ』)

 聞くと鈴はふっと笑った。「さあ、なんでしょう」ととぼける表情は年相応に幼く見える。
「ダン、部活の時間でしょう。こんなところにいていいの?」
「いい。鈴のことを探していたんだ」
「なにそれ」
「鈴、どうして俺を避けるんだ。俺、何かしてしまったのか?もしそうなら謝る。だから、」
「避けていないわ。もうべつに話したいと思わないから近づかないだけ」
 突き放すような冷たい言い方に息をのんだ。鈴は俺の目をまっすぐに見ている。いつの日か、おいしかった、ね。と俺の言葉を訂正したときのように。
「……でも、俺は話したい。だから、これからも話しかける」
 鈴は眉を八の字にした。本当に困っているようだった。
「あのね、ダン、あなたに近づいたのは、あなたが可哀そうな子だったからよ」
 鈴は言った。俺が一番聞きたくない言葉だった。驚いて目を見開いていると、鈴はもうずっとため込んでいた言葉を吐き出すように続けて言葉を放った。
「両親に言われていたの。海外からお父さんと二人だけで日本へきた可哀そうな子がいる。可哀想な子には優しくしなさいって。そうしたらね、グランドピアノを買ってくれるっていうんだもの。おもちゃみたいなキーボードにはうんざりしていたから、私はその言葉にとびついたの。それだけ。ただそれだけ。だからもう私には関わらないで」
 鈴は言って、最後に、
「さよなら!」
 と念押しするように言い放った。
 音楽室に一人残された俺は茫然として立ち上がれなかった。頬が湿っているのに気が付いて、あ、泣いている、鈴に泣かされたんだ、俺。と妙に冷えた頭でそう考えた。
 そうか、俺が可哀そうだったから。だから優しくしてくれていたのか。だったら鈴はほかのやつらと同じだ。いやもっと酷いかもしれない。間違えた日本語を曖昧に笑って流す奴らよりも、可哀想、という同情心で近づいてきて、その報酬にグランドピアノを買ってもらったのだという鈴の方が。
 不意に、小学生の時、お互いランドセルを背負って歩いた夕暮れの道を思い出した。そうだ、思い出した。鈴が引いていた曲。あの曲はダニー・ボーイだ。どうして忘れていたんだろう。
「どうしてダニエルって名前なの?何か意味があるの?」
「お母さんが名付けたんだ。ダニー・ボーイっていう民謡が好きで、眠れない夜によく歌ってくれた。でも、もうあんまり思い出せないな……すごく小さい時のことだから」
「ふうん……」
 鈴は何か考えるようにした後、
「大丈夫。きっとまた思い出せるよ」
 と、本当に優しく微笑んだのだ。あの笑顔はきっと嘘じゃなかった。

 
 それから俺たちは卒業するまで一言も言葉を交わさなかった。鈴はピアノに忙しいのか学校を休みがちだったし、別のコンクールの練習があるから、という理由で合唱コンの伴奏を断っていた。別々の高校に進学し、連絡をとらないままいつの間にか二十歳になっていた。

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