小説

『幽刻』乃木宮稜(『変身』)

 声は聞こえるが何を言っているのかは理解出来ない。ただ、心の中の大事なものを留めようとでもするかのように必死の抵抗を続ける女の姿がやけに気になったのだ。それを眺めていると、やがて男の方と目が合った。怒りと悲しさが入り混じったような表情を浮かべて、彼は私に何かを叫ぶ。何を言ったのか、まるで異国の言語であるように私がその意味を理解することは出来なかったが、少なくとも私の存在を遠ざけようとする意思だけは感じ取ることが出来た。邪魔をするつもりはない、と軽く頭を下げて、再び私は歩を進める。

 あの二人は今後どのような道を辿るのか、なんてぼんやりと思案するも大した答えは浮かばなかった。そもそも私だってこれから何処へ行くというのか。そもそも私は何処から来たのだろうか。意味のない想像を働かせても良いぐらい、私に時間なら幾らでもある。
 ふと、強い風が私の身体を追い越した。もうすぐ春が来る。確かなことは、今はまだこれだけだった。

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