小説

『You still life』サクラギコウ(古典落語『短命』)

 息子さんは自殺しようとした友人を助けようとして亡くなったのだという。
 友人の命は助かり息子さんは戻ってこなかった。この事実に、考えてはいけない悪魔の声とも戦ってきたという。
 深い哀しみと苦しみが篠原さんの人生を占めてきた。刻まれた皺の数だけ苦悩し続けたに違いなかった。あたりまえの慰めの言葉などかけられなかった。
 奥さんは息子が亡くなってから体を壊し入退院を繰り返して10年前に逝ったのだという。
 一瞬妻のことが脳裏を過った。まだ家出2日目だった。
「嬉しいとき、辛いとき、かみさんと一緒によく飲んだなぁ」
 息子も女房も救えず後悔だけが残る人生だと淡々と話す声に耳を傾けた。陳腐な慰めの言葉などで、篠原さんの哀しみを救うことなどできない。傷口を広げるだけだ。ただ話を聞いている。それしかできなかった。
「焼酎、買ってきます」

 コンビニで女房と同じくらいの年の女が買い物をしていた。レジに並んでいた私は手に持った弁当と焼酎を棚に戻しコンビニを出た。
 スーパーでみそ汁の材料と肴と焼酎をかごに入れる。料理は進んでする方ではなかったが、みそ汁作りだけは女房におだてられてよく作った。味噌の風味を損なわないよう旨いみそ汁を作る自信があった。

 「あーー旨いなあ!」
 幸せそうにみそ汁を飲む篠原さんを見ながら、家に帰ったら妻に本当のことを話そうと考えていた。
 3日目の夕方家に戻った。たった3日家を空けただけなのに我家は敷居が高かった。私のような真面目人間は所詮こんなものだ。
 妻は留守だった。もう嘘はバレているに違いない。会社に連絡すればすぐにわかることだ。スマホはあれから一度も電源を入れぬまま鞄の底に眠っている。
「まったく、男なんてバカでしょうがない生き物なのね」
 妻と友人たちの会話が目に浮かぶようだ。
 家から旅行バックがなくなっていた。妻は小旅行にでも出かけたのか?

 家の電話が鳴った。妻の妹からだった。
「義兄さん、どこへ行ってたんですか!」
 彼女は謝る間も与えぬまま、妻が入院したこと、救急車で運ばれ、私と連絡が取れなかったので緊急手術のサインは妹がしたことを一気に捲し立てた。
 妻は脳梗塞だった。運が良かったことに倒れたとき妹と電話中だった。手当が早かったため障害も少なく済みそうだという。
「姉さんには義兄さんのプチ家出、言ってないから」
 と義妹が言う。そして少し悪戯っぽい声で
「内緒にしてあげる。高くつくわよ」と言った。
 これからは妻だけでなく義妹にも頭が上がりそうもない。

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