小説

『ギア』広瀬厚氏(『歯車』)

 僕は彼女と合った目を閉じ呟くように歌いだした。自分でも驚くほどに上手く歌えているのが分かる。フロアからさざ波のように、溜息のような静かなどよめきが起こった。僕は、それを耳に目を閉じたまま歌い続けた。
 歌い終わり目を開けるとそこに彼女はいなかった。大きな拍手が起こりアンコールの声が小さな場内に鳴り響いた。けれども僕はアンコールに応える事なくステージを後にした。
 僕はライブハウスを飛び出し、街に彼女の影を追った。どうしても今夜、もう一度会わなければならない。そんな気がしてたまらなかった。あてもなしに街中を駆け回った。あちらこちらと必死に目を向け方々見渡した。人とぶつかり叱咤された。そのうちぽつりぽつりと雨の点滴が街を濡らし始めた。
「だめか」息を切らしこうべを垂れ、点滴に黒く染まりゆく足もとを見つめ呟いた。
「あの… 純さん?」と背後に声がした。
 振り向くと傘をさした彼女がそこに立っており、思わず僕は目を見張った。
「いったいどうしたんですか?」
「君を探していた」
「わたしを……」
 ふたりはそばにバーのネオンサインを見つけ扉を開け入った。
 彼女は、近くに用事があって最後の曲の途中やむをえずライブハウスを外に出た。用事を済ませ駅に向かって歩いていると雨粒が頬に落ちた。立ち止まり、天気予報で雨が降ると知り持ってきた、折りたたみの傘を開いた。ふたたび歩きだし、ふと前をみると、今晩ライブハウスで歌っていた僕らしき後姿がそこにあった。まさか? と疑ったが、ステージと同じ服を着る後ろ影に、ひょっとして? と、思いきって声をかけた。果たしてそれは僕だった。と言う。
「ほんとにびっくりしました。それにしてもどうして私を?」
「うん……… 」僕はなんと言って答えるべきか悩み黙った。そして逆に彼女に問うような事を言った。
「ライブハウスでほとんど動かずじっと立って、こちらも見ずに聴いてたよね」
「歌に集中して聴きたかったから、やっぱり変でした?」
「いや… すごく気になっちゃって」
「ごめんなさい」
「そんな謝らなくても… こちらこそなんだかごめん。そう言えば最後の歯車のイントロのところで一瞬目が合ったよね」
「ええ、そんな気が… 」
 ふたりはグラスを前にしばし沈黙した。僕はラムをロックで、彼女はジンベースのカクテルを飲んでいた。
「名前を聞いてもいいかな?」僕は口をきった。
「彩乃。滝彩乃です」彼女は答えた。
「君をなぜ探してたか? ってさっきの質問の答えなんだけどなんて言ったらいいのか… うん、とにかく君に会わなければならない気がして、それはどうしてかと…… ごめん、うまく伝える自信がない。僕こそとっても変だよね」
「変だなんて…… それより嬉しい、私を探してたなんて。だって私、純さんの歌の大ファンだから」

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