小説

『空蝉の部屋』緋川小夏(『檸檬』)

 シャク、と噛むたびに水気をたっぷりと含んだ瑞々しい甘味が口の中いっぱいに広がる。私は自分がこの部屋を訪れる理由が罪滅ぼしだけではないことに、徐々に気づきはじめていた。

 それからしばらくして、亮悟から私の携帯電話に連絡があった。
「檸檬が食べたい」
 それだけ言うと、電話はすぐに切れた。公衆電話からかけていたようで、こちらから折り返し電話をかけることはできなかった。
 亮悟から何かを欲するような電話がかかってきたのは初めてだった。驚いた私はすぐに出かける用意をして、自宅を飛び出した。
 いつもの八百屋で檸檬を一山買ってバスに飛び乗る。ビニール袋に入った檸檬の愛おしい重みを確かめながら、亮悟の元へと急いだ。最寄りのバス停でバスを降りると、いつもよりも強い汽水のにおいが鼻を突いて、私は思わず咳込んだ。
 何度も通った道のりなのに迷いそうになる。纏わりつく不穏な予感。闇を孕んだ生温かい風。私はそれを必死に振り払いながら、小走りに亮悟の部屋へと向かう。
 肩で息をしながらトントン、とドアをノックした。けれども部屋の中は静まり返っていて返事はなかった。
「亮悟……琴子です。いないの?」
 恐る恐るドアノブを回すと、いつも通り部屋の鍵は開いていた。
 案の定、部屋には誰もいなかった。元々まともな家具など何もなかったけれど主のいない部屋はがらんとして、やけに広く感じられる。部屋に入って台所に向かい、流し台の引き出しを開けてみる。中には何も入っていなかった。
 押入れの中に無造作に突っ込まれていた寝具や、数少ない着替えもなくなっている。汚れたガス台や小さな冷蔵庫もない。それなのに窓にかかっている薄いグリーンのカーテンは、何故かそのままになっていた。
 亮悟はもう、ここにはいない。
 そう思うと全身から力が抜けて、私はその場に崩れるように座り込んだ。涙は出なかった。きっと亮悟は帰って来ない。電話もかかって来ることはない。私たちは、もう二度と逢うことはないだろう。私はそう、確信した。
寂しかったけれど、悲しくはなかった。心のどこかで、こうなることはわかっていたような気がする。目を閉じて静かに安堵している自分がいた。
 部屋の隅には、亮悟がいつも使っていた折り畳み式のローテーブルが置き去りにされていた。
「おまえも置いて行かれたんだね」
 私は持っていたビニール袋の中から檸檬をひとつだけ取り出して、テーブルの上にそっと置いた。
「あげる」
 誰に言うでもなく、私はひとりごちた。
 亮悟が「檸檬が食べたい」と言ったのは、もう自分がここにはいないことを私に知らせるためだったのだろう。そもそも檸檬なんて、そうそう一度にたくさん食べるものでもないはずだ。
 でも後悔はしていない。檸檬を抱えながら走ってこの部屋を目指したことを、私は一生忘れない。忘れられない。

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