小説

『夢千百十一夜』わそら(『夢十夜』)

「まっすぐかい」
と自分が聞いた時、ふうと吹いた息が、障子を通り越して柳の下を抜けて、河原の方へまっすぐに行った。
爺さんが表へ出た。自分も後から出た。爺さんの腰に小さい瓢箪がぶら下がっている。肩から四角な箱を腋の下へ釣るしている。浅黄の股引を穿いて、浅黄の袖無を着ている。足袋だけが黄色い。何だか皮で作った足袋のように見えた。
爺さんが真直に柳の下まで来た。柳の下に子供が三四人いた。爺さんは笑いながら腰から何かの種を取り出した。それをじぃと見つめた後、地面の真中に置いた。それから種の周囲に、大きな丸い輪を描いた。しまいに肩にかけた箱の中から真鍮でこしらえた飴屋の笛を出した。
「今にその種が咲くから、見ておろう。見ておろう」
と繰返して云った。
子供は一生懸命に種を見ていた。自分も見ていた。
「見ておろう、見ておろう、よいか」
と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。自分は種ばかり見ていた。けれども種は咲くどころか芽さえ出ない。
爺さんは笛をぴいぴい吹いた。そうして輪の上を何遍も廻った。草鞋を爪立てるように、抜足をするように、種に遠慮をするように、廻った。怖そうにも見えた。面白そうにもあった。
やがて爺さんは笛をぴたりとやめた。そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、種の首を、ちょいとつまんで、ぽっと放り込こんだ。
「こうしておくと、箱の中で花が咲く。今に見せてやる。今に見せてやる」
と云いながら、爺さんがまっすぐに歩き出した。柳の下を抜けて、細い路を真直に下りて行った。自分は花が咲く所が見たいから、細い道をどこまでも追いて行った。爺さんは時々「今になる」と云ったり、「花になる」と云ったりして歩いて行く。しまいには、
「今になる、花になる、きっとなる、笛が鳴る」
と唄いながら、とうとう河の岸へ出た。橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の種が花になるのを見せるだろうと思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入出した。始めは膝くらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方まで水に浸って見えなくなる。それでも爺さんは
 「深くなる、夜になる、花になる」
と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。そうして髯も顔も頭も頭巾もまるで見えなくなってしまうその時、爺さんが俺の方へと向かって言った。
「花になる、きっとなる」
自分は爺さんが向岸へ上がった時に、花を見せるだろうと思って、蘆の鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。

(結局花はどうなったんだ…)

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