小説

『沈黙の太陽』三角重雄(『名人伝』)

 ナーラカの表情はさながら幼児のようで、瞳に純真な心を宿していた。ブッダガヤの人々は、そんなナーラカに出会うと、進んで喜捨してくれるので、ナーラカは日に一度の食事にも、寝る場所にも困ったことはなかった。ただ心に掛けているのは、ガウダマの修行の様子であり、苦行のさなかのガウダマを思っては胸を痛めていた。
 時来たれり!その日は前々から予感があった。ガウダマは三十五歳のはずであった。ガウダマが苦行を捨て、ナイランジャナー川で沐浴し、村娘から乳粥の施しを受けて菩提樹下で瞑想に入ったことは知っていた。覚醒の時が迫ったことは、夜の闇の深まりで伺えた。ガウダマは闇の中で魔の誘惑と戦っていたのだ。
 夜明け前が一番暗い。そして明けない夜はない。瞑想中のナーラカの心眼に赫々とした太陽が昇った。丁度その時、東方の丘の彼方、暁闇を払って旭日が昇り始めた。仏陀成道の瞬間だった。
 二十二日間は、覚醒後の法悦に浸る仏陀に遠慮して、訪問は控えた。その後の二十八日間は、衆生にダーマを説くか否かで熟慮する仏陀を察知し、やはり対面を控えた。とうとう天からブラフマンが降臨し、梵天勧請が行われた。「仏陀は立つ」と知った瞬間、ナーラカも立った。
 ナーラカは菩提樹下からニグローダの樹の下に移動していた仏陀を訪問したのだが、仏陀はかつての修行仲間、五人の沙門に会いに行く寸前であり、目の前に五体投地して己を礼拝する壮年の修行僧が現れたことに驚いたようだった。ナーラカは、脳裡に描いていた以上の仏陀の、光明燦然たる姿に胸を打たれて、思わず身を投げ出したのだ。ナーラカは、三十五年間の沈黙を、ついに破った。
「仏陀よ。私に沈黙行を教えてください」
 その声は、覚者仏陀への問いの嚆矢であったが、弟子との対話の始まりに相応しい、内なる力に満ちた神韻であった。仏陀は感動を禁じ得ず、己に正対して結跏趺坐したこの男を、慈愛の眼差しで眺めた。
「あなたのように沈黙に生きる、それを沈黙行と言います」
「仏陀よ。悟りの境地とはどのようなものですか」
「あなたは…、アシタ仙人の…」
「ご存知ですか?アシタは私の伯父です」
「そうでしたか。感無量です。悟りですか。それはあなたの境地です」
「私の?私は…、私には、すべてが同じように等しく尊い」
 仏陀は完爾として笑った。
「では、ダーマとは?」
「あなたの名はナーラカ。ナーラカよ。あなたはあなたに帰ったのです」 
 その後二人は、満ち足りてしばらく沈黙の言葉で会話した。ナーラカはもう、仏陀に会う必要を感じなかった。後は仏弟子として再び、沈黙行を為して生きればいいだけだった。

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