小説

『沈黙の太陽』三角重雄(『名人伝』)

「お前はお前の資質を自ら気づいておらぬな。お前の本質はアヒンサーだ。そのお前が功を焦るばかりに、今までは、いたずらに法論を挑んでばかりおったのじゃ。それは、非暴力のアヒンサーに反するエネルギーではないかな。だから、自分で自分のアヒンサーを見直すために、暴力的であった自分の法論の無効を思い知る体験をした。つまり、全てはお前の自作自演じゃ」
「そういうことだったのですか…。それでは伯父上、私は資質からして修行には不向きでしょうか?」
「先ほど申したであろう。お前の本質はアヒンサーだとな。お前はアヒンサーを修行せよ。ただ、修行者は空を耐えねばならぬぞ」
「空を耐える、ですか?」
「そうじゃ。お前は法論のための法論をしてしまった。そこにはダーマはない。ではどこにあるのか?すべてお前の中にあるのじゃ。ただ、己の中のダーマを見つけることはたやすくない。だからこそワシも森で修行し、ビシュヌもヨーガをやっておる。ところで、時間がない。今日という日のワシの出来事を話して聞かせよう。その話しの中に、お前が求めておるものがある。どうじゃ。聞くか?」
「はい。是非!」
「では語ろう。ワシは今日、シュッドーダナ王に召されて未来を占ってきた。カピラヴァストゥ城は聖なる歓びに沸いておった。その歓びこそ王子誕生である。お前もご出産の瑞祥に気がついておったであろう」
「瑞祥、と仰いますと?」
「気づかなかったのか?だからお前は道を見失うのじゃ。多分お前が、ビシュヌと向かい合っておった時じゃ。ビシュヌに何かそれらしき振る舞いがあったじゃろう?」
「振る舞いですか…。あっ!彼は天を仰ぎました。そして彼は何かに打たれてハッとして…」
「それじゃよ。ところでお前は、あの大地鳴動には、さすがに気づいたろう?」
「大地鳴動があったのですか?」
「『あったのですか』ではなかろう。本当に困ったヤツじゃ。仕方あるまい。詳しく聴かせよう。今朝早くマーヤー妃は、数日のうちのご出産を予感され、ご実家で王子をお産みになるべく旅立ちの準備をされ、朝のうちにお城を発たれた。ほどなく王家御別荘のルンビニ園をよぎるや、妃は休息を所望された。美しい花園であるルンビニ園は、花々が咲き乱れておった。殊にマーヤー妃の目を楽しませたのは、朱色に燃える無憂樹であった。その木陰で休んでおったところ、天からご覧になっておられた神々が、『時至れり』と思われたのだろう、大地を鳴動させたもうたのじゃ。その大地鳴動によって目の前の地面が割れ、清水がこんこんと湧いた。出産の近きを悟った妃は下々に命じてたらいを用意させた。家来たちもまた、お産が始まったことを知って大わらわ、清水を汲んで湯を沸かし、たらいにお湯を満たした。随行しておった産婆が妃の両脇を抱え、立位による出産準備が整った。苦痛に顔を歪ませつつも、その表情の奥に聖なる喜悦を宿したマーヤー妃はかねて産婆に教えられて体得されていた呼吸法を用い、襲い来る波のうねりに似た陣痛の痛み、その律動に身を任せ、耐えておった。その時、妃の苦痛を慰めるために、天は薫風を香らせたのじゃ。その時ワシは知ったのじゃ。」

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