小説

『人間犬』太田純平(『人間椅子』江戸川乱歩)

「アア、あの人の犬になりたい」
 私は金澤家の前を通る度、毎回そう思う。「自由が丘にある戸建て」と言えば、金澤家が決して枯れた民家でない事は想像がつくだろう。
 キリンのように首を伸ばすと、ようやく金澤家の庭先が見える。そこではゴールデンレトリバーらしい大型犬が飼われていて、老犬なのか、いつも犬小屋の前でダランとしている。季節を問わず日が落ちると、その老犬は、金澤家の奥様によって家の中に招き入れられる。
 金澤家の奥様というのは、あくまで想像だが、三十代半ばの人妻である。きっとご主人は亡くなったか、単身赴任で海外にでもいるのだろう。一年三百六十五日、一度としてその姿を見た事が無い。
 私は、そんな金澤家の奥様に惚れている。胸まで伸びた黒髪もそう。常に抽象画のようなファッションセンスもそう。そして何よりあの、冷淡な眼!
「アア、あの人の犬になってイジメられたい!」
 私は日に日に、その思いが強くなっていくのであった。

 
「アア、もうあの犬になってしまおうか」
 私がそう思い始めたのは、金澤家の老犬が元気をなくし始めてからである。以前は庭先を歩く――というよりノソノソと這っているのをよく見掛けたものだが、今は見る影もなく弱り、ほとんど動いていなかった。
 私は着ぐるみ製作会社に勤めて、かれこれ十五年になる。自由が丘の外れ――奥沢にあるアパートには、ちょうど一年前に引っ越して来た。ボロアパートから会社に通い、日々、アパートの外観よりもボロボロの生活を送っている。特に昨今は『ゆるキャラ』需要の高まりもあって、マア忙しい。はっきり言って、生きる為に働いているのか、働く為に生きているのか区別が曖昧になっている。
 そんな、ある秋の事。私はある奸計を思いついた。
「あの老犬の着ぐるみを作って、私が本物と入れ替わってしまおうか――」
 そんな邪念が頭をよぎってからというもの、私は通勤中も仕事中も「もし私が『人間犬』になったら――」という計画の事しか、考えられないようになってしまった。
 人間の欲とは本当に恐ろしいもので、一度頭の中から撃退しても、たちどころに第二第三の波が押し寄せて来る。私は欲望の第四波、いや第五波までは撃退した。 
 しかし、ついに私の理性と言う名の防波堤は破られて――。

 
「アア、人間ゴールデンレトリバー」
 なんという淫靡な響きであろう。

1 2 3 4 5 6