小説

『時の流れ』広瀬厚氏(『浦島太郎』)

「きっとそう言ったことであろう」
 太郎は、決して開けてはならぬ、と乙姫から渡された玉手箱を両の手に持ち、あれやこれやと考えぬいたすえ悟った。

 多少の面影は違えど、確かにここは、自分のよく知った浜辺だ。されど浜からすぐそこにあった、両親と共に暮らした村が、今ではすっかり消え失せている。
 村のあったあたりにぽつんと一軒建っている、見知らぬ家におった老人に太郎は尋ねた。
「もしやご老人、浦島太郎をご存じでしょうか?」
 老人は彼に言った。
「浦島太郎はな、昔々… 何百年も昔、このあたりにあった村におった漁師でな。ある日突然姿を消してそれ以来、二度と村には戻らなかったそうじゃ。この近くにある古い塚の両親の墓と聞く。なんでもずいぶん太郎のことを心配して二人とも亡くなっていったそうじゃ」
 太郎は愕然として膝を折った。竜宮城での享楽にふけりつつも、頭の片隅に、残してきた両親を思い心配し、そのまま享楽を貪り続けることなく、帰る決心し、いざ帰ってみるとそこに村はなく、何百年もの時が過ぎていて、あたりまえに両親は死んでいた。
 楽しき時は早く過ぎゆく。確かに竜宮で過ごした時間は、それはそれは楽しいものであった。それにしても…… 時間の経過する感覚が大変曖昧に感ぜられたゆえ判然とはしないが、数日、長くとも一二週間、それぐらいの間であったように思われる。それがまさか数百年とは。
 波打ち際に立ち、時の流れの不思議を思う太郎の姿が、一瞬間鮮明に海の水面に映った。それは数百年の時を経ても以前と変わらぬ、まだ二十代なかばの若い姿であった。完全に彼の時の流れはどこかに封じ込められているようだ。
 太郎は思った。海の底深く亀に連れられ行った竜宮城は不老不死の国であったのだ。不老不死であれば時間と言った概念などまったく意味を成さない。ならば、時間の感覚など曖昧になって当然である。と言おうか、時間そのものがそこには存在しなかったのかも知れない。そして陸に上がった今、自分の時間は、その不老不死の術によって、この玉手箱のなか封じ込められている。この蓋を開けたならば刹那にして数百年の時が流れ、自分の姿は老いるどころか跡形なく、塵芥に帰するだろう。
 だが、両親も誰も知る人のいないこの地に、歳もとらずにひとり生きていたって、虚しいだけで仕方がない。太郎は、開けてはならぬと乙姫に言われた、玉手箱の蓋を開けようとした。その時、彼の頭にまた別な考えが閃いた。
〈運命〉の二文字が太郎の胸中、鋭い鑿で瞬時に刻まれた。それは亀を助けたことを発端に訪れた、中途はどうであれ結果的には、奇禍である。亀への善意を、亀は善意で返してくれたのだろうが、結局は災難となった。しかしきっと逃れようのない運命だったのだ。太郎は、こうなったらどこまでも生きてやる、森羅万象をこの目で、耳で、鼻で、舌で、肌で、己の全身全霊で確かめて〈人として〉悉くその真理を悟ってやる。それまで決して玉手箱の蓋は開けぬ。乙姫は自分にそう託したのだ。そう考え決めた。

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