小説

『金魚姫』宍井千穂(『人魚姫』)

 この教室には酸素がない。死にかけの金魚みたいに口をパクパクさせても、ただ苦しいだけだ。あちらこちらを器用に泳ぎ回るクラスメイトの横で、私は静かに溺れていく。
「うわ、あいつまだ学校に来てるよ。ほんとうざい」
 扉を開けた瞬間、愛美の一際大きな声が教室中に響き渡った。その周りにいる取り巻きたちも、愛美の言葉に反応して甲高い笑い声をあげる。私はできるだけ目を合わせないようにして自分の席に着いた。
「あいつがいるとなんか臭いんだよね、ゴミの臭い?」
「私、昨日の席替えであいつの前になっちゃったんだよ。まじ、最悪」
「目障りだから、さっさと死んでくれないかなぁ」
 むき出しの悪意が、私の背中に当たって破裂する。何個も、何個も。制服にべったりとくっついたそれは、ぴったりと張り付いたまま取れなくて、私の心にじわじわと染み込んでくる。ゴミ、最悪、死ね……。愛美たちから浴びせられた言葉が、壊れたCDみたいに繰り返し再生される。
 愛美と同じクラスになったのは、去年の春だった。それまでは少ないながらも友達と呼べる子はいて、クラスでは中の下くらいの地味な立ち位置に収まっていた。派手な女子たちのグループに憧れないわけではなかったけど、引っ込み思案な私にとっては、それで十分だった。
 私とは対照的に、愛美は可愛くて気の強い、典型的なリーダー格の女子だった。中学生の時も、おとなしいクラスメイトをいじめて不登校に追い込んだという噂だった。このクラスでも、”獲物”を探している。本能的に危険を察知した私は、できるだけ愛美に関わらないように心がけた。話していいのは向こうから話しかけて来た時だけ、間違っても自分から話しかけてはいけない、何か決めるときは愛美たちの意見に合わせる。クラスの空気を必死で読んで、自分がターゲットになるのだけは避けようとして来た。
 だけど、そんな努力は一瞬で水の泡となってしまった。きっかけは些細なことだった。私は春の体育祭で、クラス対抗リレーの選手に入れられた。もちろん私は数合わせで、もっと足の速い子が後半を走ることになっていたから、私はただ100mを普通に走ってバトンを渡せばいいだけだった。前の子からバトンを受け取って、私は全力で走り出した。別にこんなリレーに勝とうが負けようがどうでもいい。ただ、愛美には目をつけられたくない。幸い、誰にも抜かされずにカーブを曲がる。あと10m……手を伸ばして次の子にバトンを渡そうとした時だった。解けた靴紐を踏んづけ、気づいたら地面に手をついていた。慌てて立ち上がろうとする間に、後ろから来る子にどんどん抜かれていく。どうにかバトンを渡した時には、私たちのクラスは最下位になっていた。
 傷の手当てを終えてクラスの観覧席に戻ると、冷たい空気が流れていた。誰も私と目を合わせようとせず、近づくとそそくさと何処かへ行ってしまう。後ろでは、愛美たちが私のことをチラチラ横目で見ながら、何かを囁きあっている。その顔は怒っているようで、どこか楽しそうに口の端を歪めている。その瞬間、私は自分が愛美の標的にされたことを悟った。

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