小説

『ビートルズ』もりまりこ(『変身』『冬の蠅』)

 緑色の光の中で歩幅をひろげて逃げてゆく人。非常口へと急いでいる。頭の中ではいつだって逃げているんです。母の非常口、父の非常口、あなたの非常口。こんなに逃げ続けているのにわたしの非常口はみつからないんですと、遠い声。

<おめでとう>って声が聞こえる。蟹の足をたくさん食べさせる暗い店の中で、ちいさな花火が弾けたみたいな音がする。タキシードの男の人がハッピーバースデーを歌う。ここ照れるところ? 喜んでるふり? どっちかわからない表情の女の人は、目の前の彼を見て視線で合図する。彼は手をちいさく動かして彼女に伝える。彼女はそれに答える。指先を揺らしながら。ふたりの耳元にはこのパチパチという蝋燭がちいさく爆ぜる音も、拍手の時の掌が鳴る時の音も聞こえないらしい。彼らの耳のなかはとても静からしいということがわたしにはわかった。
<おめでとう><おめでとう>わたしもこころの中で祝福することばを呟いてみる。その隣で無心にスープを啜るみしらぬ老女たちにも囁いてみる。
<おめでとう>

 わたしの眼の前にいるあなたにも心の中でおめでとうを言う。ふたりの眼の前には抜け殻の蟹の爪がうず高く盛り上がっている。アメリカンクラブという種類の蟹の身を黙ってほぐす。ほぐしては中皿の中のマヨネーズソースとレモンオイルのどちらかに浸して口に入れる。
 あなたの指もおなじように蟹の殻をはさみながらそこから突き出た、蟹肉をソースに浸して口元へと運ぶ。肉付きがいいきれいな指を眺めていた。
 たぶん小さな頃から、きれいな指でって想像していたら、あなたのどうしたの? って声が聞こえた。あなたはわたしがあなたの過去の映像に思いめぐらそうとすると、いつもそれを遮る。もう少しであなたが小学生だった頃の、たとえば教室の傷のある机の上で動いていた指を空想できたのに、途中で壊れた。
 わたしは首を振る。首を振りながらさっき祝ってもらっていたふたりを見た。
 あなたもそれを見る。「繭子さんの誕生日もうすぐだね」
 あなたは初めての子供の誕生日が今日か明日かもしれない瀬戸際なのに、わたしの誕生日のことを聞く。
「誕生日にちいさな花火散らしてみる?」
 あなたが笑う。やっぱ恥ずかしいよねってそのふたりを見ながら、小さな声で言う。うんでもないううんでもない、曖昧にわたしは頷く。うなづいた後、さっき胸の内で呟いたおめでとうが所在なげになってゆくのがわかって、もう一度わたしは見知らぬ人たちに<おめでとう>を心の中で言いなおす。

 ある朝目覚めてみたら、虫になっていた。グレゴール・ザムザみたいに、わたし以外の家族全員が。階段を上がって狭い廊下の突き当り、弟の部屋を開けるとベッドの上に一匹の昆虫がいた。カブトムシぽかった。背中はてらてらと茶色く光っていて頭には角があって肢や翅が胸っぽい場所から生えている。

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