小説

『河童の女房』緋川小夏(『河童』)

淳悟なんて人は最初から存在していなくて、もちろん河童も空想の世界の生き物で、わたしはずっと前からここに一人で暮らしていて。
幸せな記憶は霞がかかってあわあわとしていて、わたしは泣きそうになった。
食欲はなかったけれど、とにかくご飯を炊こうと流しでお米を研いだ。すると水に触れたときの皮膚や指先の感覚が、これまでと違っていることに気がついた。
「これって、みずかき……」
 わたしは驚いて指先を流しの上にある白熱灯に晒した。まだ薄いけれど、指の股の部分に膜のようなものができている。手の甲は荒れているわけでもないのに皮膚が盛り上がって、表面が凸凹になっている。
上着をめくってみると、赤みがかった緑色の鱗が体の中の一番柔らかい部分を覆っていた。まさかと思って頭のてっぺんあたりに触れてみると、そこには固い皿のようなものが形成されはじめていた。
そのとき急に強烈な吐き気を感じて、わたしはその場にうずくまった。胃が収縮を繰り返して何度も大きくえずいた。お腹に手を当てて、しばし考える。そういえば生理がない。まさか。でも、もしかしたら。 
わたしは這うように洗面所に行って引き出しから小さな箱を取り出した。以前、買っておいた妊娠検査薬だ。しばらく使わなかったので、その存在を忘れかけていた。
中身だけ持ってトイレに籠り、尿をかけて、しばらく待つ。すると判定窓に二本の太い線がクッキリと浮かび上がった。驚いたことに結果は陽性だった。

 夕方から降り出した雨は、夜半を過ぎても止まなかった。
 わたしは何も持たずに裸足のまま家を出た。玄関の鍵をかけようか迷ったけれど、かけずに開けたままにした。もう二度と、この家に戻ってくることはないのだから鍵なんて必要ない。
 向かう先は道祖神の、その先にある沼だ。きっと淳悟はそこにいる。淳悟が来られないのなら、わたしから逢いに行けばいい。
 淳悟に逢えたら、まず赤ちゃんができたことを報告しよう。淳悟は驚いて目を丸くした後、きっと大喜びでわたしを抱きしめてくれるはずだ。
 そこが楽園なのか地獄なのかはわからない。でも淳悟とわたし、そして赤ちゃんと家族一緒なら、きっと何とかなる。何とかしてみせる。かなしい夢を見て泣きながら目覚めることも、たぶん、もう無い。
 降りしきる雨に打たれながら、傘も差さずに真っ暗な砂利道を歩く。何も怖くない。わたしは水掻きのついた足で、沼までの道のりを急いだ。

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