小説

『河童の女房』緋川小夏(『河童』)

 そう言って淳悟が使っていた傘と野菜カゴを差し出すと、河童は言われた通り枇杷の実を布袋ごとカゴの中に入れた。
「あれ、この布袋……」
 雨と泥で煮しめたように汚れていたけれど、河童が持っていた布に見覚えがあった。それは淳悟の弁当箱を包んでいた、青いペイズリー柄のバンダナだった。
「ねぇ、ちょっと! このバンダナどうしたの? どこかで拾ったの?」
 河童は何も答えない。
「あのね、このバンダナは行方不明になっている、わたしの夫のものなの。そうだ、あなたどこかで夫に会わなかった? 背はあんまり高くなくて……そう、ちょうどあなたと同じくらい。中肉中背で顔はいかにもお人好しって感じ。笑うとただでさえ小さな目がさらに細くなって、口元に皺が寄るの。性格は天然のように見えて、実はかなりの頑固者で……」
 ふんふん、と、それまでわたしの話を黙って聞いていた河童が、ふいに両手を広げてわたしの体を抱きしめた。その勢いで持っていた傘が、ふわりと漆黒の宙に舞う。
(サ、 ワ、 コ)
 頭の中に直接、言葉が入って来たような気がした。わたしは驚いて体を離した。
「……え?」
 すると河童は、さらに強い力でわたしの体を掻き抱いた。
「本当に淳悟なの? 淳悟なのね?」
 わたしは河童の手を引いて玄関まで連れて行き、手の甲をまじまじと眺めた。もし、この河童が本当に淳悟ならば、左手に大きな傷跡があるはずだ。
「ちょっとこっちに来て。手をよく見せて」
 果たして鱗に覆われた河童の左手に傷跡はあった。姿はすっかり変わってしまったけれど、この河童は間違いなく淳悟だと確信した。
「やっぱり淳悟だ……おかえり。遅かったじゃない。ずっと待っていたんだから」
わたしは感極まって河童の胸に顔を埋めた。淳悟の体は雨に濡れてひんやりと冷たく、むせ返る強い生水のにおいがした。
 淳悟はウッドデッキから家に上がると寝室を抜けてキッチンを通り、迷うことなくリビングへと進んだ。そして当然のようにソファーに腰かけた。やっぱり覚えていた。そこは大きな窓から庭の景色が一望できる、淳悟のお気に入りの場所だった。
 照明の下で改めて見るその姿は、思った以上に河童だった。
 体は全身赤みがかった深い緑色の鱗に覆われていて、背中に亀のような大きな甲羅を背負っている。頭の上には皿、目はぎょろぎょろと白目を剥いていて、硬くて尖った嘴がついている。体は生臭く、ひんやりとして冷たい。そして手と足には蛙のような立派な水掻きがあった。
「そうだ、お茶。熱いお茶を淹れようか」

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