小説

『河童の女房』緋川小夏(『河童』)

 それから何日か経った、ある雨の夜。コン、と窓を叩く音がした。
 枕元に置いてあった時計を手に取って確認すると、時刻は午前二時をまわったところだった。少し風も出てきたみたいだから、木の枝か小石が窓に当たったのかもしれない。
 気持ちを切り替えて眠ろうとすると、やはり何かが窓ガラスに当たる音が聞こえる。わたしは身構えて全神経を耳に集中させた。コン。コン。やっぱり音がする。
「誰がそこにいるの?」
 わたしは起き上がって、ウッドデッキに面した窓に向けて声を掛けた。返事はない。枕元に置いてあった懐中電灯を持って立ち上がり、カーテンを開けて外を見た。無駄に広い庭の隅で橙色の実をたわわに実らせた枇杷の木が、真夜中の風に煽られて大きく揺れていた。
「あっ」
 そのとき、暗闇の中で何かが動いた。
 淳悟が帰って来た! わたしは震える手で鍵を開けてウッドデッキに飛び出した。そして傘もささずに庭まで駆け下りた。
「ねえ……淳悟……淳悟でしょ?!」
 けれどもわたしが目にしたのは、雨の中に佇む一匹の河童の姿だった。
 河童は布の両端を結んで袋のようにして、中に何かを入れている。懐中電灯の光を当ててよく見ると、それはたくさんの枇杷の実だった。
 我が家の枇杷の木は今年も豊かに実を成した。枇杷は淳悟の大好物だ。住む家を探していたとき、集落のはずれに建つ平屋建ての古民家を借りようと言い出したのは淳悟だった。
 子どもの頃、枇杷の種を庭に植えようとして母に「枇杷の木のある家からは病人が出る」と、咎められたことがある。そのときのこと思い出して迷っていると、淳悟はそんなわたしを豪快に笑い飛ばした。
 庭に枇杷の木があれば、好きなだけ枇杷を食べられる。だからこの家に住もう、と淳悟は言った。即決だった。そしてボロボロだった家屋を自分たちの力でリノベーションした。終の棲家として、これからもずっと、ここで死ぬまで二人で暮らすつもりだった。
「あなた……枇杷、好きなの?」
 おそるおそる尋ねると、河童は小さく頷いた。どうやら人間の言葉がわかるらしい。
「どうぞ。良かったら食べて。一人では食べきれないくらいたくさんあるし」
 雨はいつしか小降りになっていた。すっかり目が覚めてしまって、今日はもう眠れそうにもない。寝るのを諦めたわたしは河童に「ここでちょっと待っていて」と告げて玄関にまわり、靴箱の上に置きっぱなしになっていた空の野菜カゴと傘を持って庭に戻った。
「はい、この傘あげる。それと枇杷。このカゴに入れたら持ちやすいから」

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