小説

『パラケルス・ルビドシアナ』末永政和(萩原朔太郎『虫』)

 まばたきするたびに世界は変化する。この細胞は次々に生まれ変わり、次々に死んでいく。今日の私と明日の私が同一人物であるという確証などなく、妻の隣にいた私が私自身であるという確証もないのだろう。そもそも私は妻と出会っていたのだろうか。
 私の目にうつるものが世界なら、いなくなった妻は私のまぶたの裏側にでもいるというのか。私は私でしかない。私は世界そのものかもしれない。誰も答えてはくれない。答えなどないのかもしれない。
 スマートフォンが鳴った。妻からメールが来ていた。「ごめんなさい、今日は外で食べてきてください」
 私は電源を切って立ち上がった。土手の上には陰鬱な空と緑の大地、つくりものめいた街並が広がっていた。
 雨が降りそうだった。日が暮れそうだった。川向こうでは篝火がたかれている。今日が四月の末日であることを思い出した。ドヴォルザークの「新世界より」はまだ聞こえなかった。

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