小説

『パラケルス・ルビドシアナ』末永政和(萩原朔太郎『虫』)

 曇りガラスの向こうで、妻はどんな表情をしているのだろうか。うつろな目をしているだろうか。童女のようなあどけない顔をしているだろうか。どうしてこうなったのかと、私は頭を抱える。
「西洋美術館でパルミジャニーノの展覧会をやるんだって。私あの人の絵、好きなのよね。エル・グレコにちょっと似てるかもしれない。前に大阪に行ったとき、一緒に見たじゃない。倉敷だったかしら? そうだ西洋美術館にもキリストの磔刑図があったわね。冷たい炎が揺れてるみたいなあの感じよ。パルミジャニーノはもっと端正なんだけど、やっぱりマニエリスムの画家だから、微妙に歪んでいるように感じるところがあって、それが何だか謎めいているの」
 耳をふさぎ、目をきつく閉じる。一糸まとわぬ自分の姿が、ひどく滑稽に思えてくる。私たちはこのままどこへ向かうのだろう。どこを目指して、二人して歩いて行けばいいのだろう。
「ねえあなた、聞いてるの?」
 不意に声音が変わり、沈黙が続いた。扉のどこかに覗き穴が開いていて、凝視されているような悪寒にとらわれる。きっと首を長くして、私の返事を待っているのだろう。
「聞いてるよ、大丈夫だよ」
 そう答えると、妻は安心したのか「洗い物しなくちゃ」と言って遠ざかっていった。食器など一切使わなかったのに、いったい何を洗うつもりなのだろうか。
 途端に沈黙に包まれた浴室で、私は思考を放棄してぼんやりと指先を見つめていた。眼前に立ち上る白い湯気がやがて明滅のように視覚を刺激し、脳がしびれていく。指先の雫のなかに、自分の姿が浮かび上がる。世界は歪み、不安定にきらめいている。そこには自分しか存在しない。
 気がつけば、ずっと湯船に浸かっていたせいで額にひどい汗をかいていた。塩分が目に沁みる。塩気の強い汗は、体調が悪いしるしだと聞いたことがある。
 湯船から出ると眩暈がした。換気扇を付け忘れたせいで浴室は白い靄で包まれ、水滴の落ちる音が遠くから響いてくるような錯覚にとらわれる。鏡は湯垢で汚れ、よく見れば微妙に歪んでいる。息が詰まりそうだ。私は体をいい加減に洗って、浴室から出た。
 バスタオルはじっとりと湿っていた。部屋干の洗濯物のような、饐えた匂いが微かにする。長い髪の毛が絡まっている。足もとのバスマットも同様で、今まで気にもとめなかったがよく見れば髪の毛が無数に引っかかっていた。
 洗濯機の内側にこびりついたカビ。玄関の隅に堆積した埃。蛍光灯のカバーのなかで蠢く瀕死の羽虫。何を見ても気味悪く、胸苦しさが強まっていく。バスタオルでどれだけ体を拭いても全身から汗が噴き出し、目の前が徐々に霞んでいく。水分を取らなければいけない。
 冷蔵庫をあけると未開封のミネラルウォーターのボトルがあり、ようやくそれで安堵の吐息をついた。
 あらためて冷蔵庫の中をのぞくとひどいありさまで、賞味期限切れの食材が目につく。腐りかけた野菜や果物が、しかし何の異臭を放つでもなく静かにそこにおさまっている。モーターのまわる音が微かに響き、暗闇のなかに私の体が照らし出されている。

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