小説

『出鱈目』広瀬厚氏(『平凡』)

 どこからか水の流れる音が聞こえる。川だろうか? 私は耳をそばだて、音のする方へする方へと、ゆっくり足を進めた。
 生いしげる樹木の切れ間から、太陽に反射してきらめく川の水面が見えた。私は、ぼうぼうと伸びる草をかき分け、またまた足を走らせた。
 川に流れるのは黄色く濁った水だったが、かまうものか、このままではどうせ干からび死んじまう、と私が黄色く濁った水面に顔を近づけた時、獰猛な肉食魚がピチピチ跳ねて、水面一面を埋めつくした。
 こりゃ駄目だ。私はその場でバタンと倒れた。途端ガオーッ! と大きな虎が、仰向く私の顔を見下ろし吠えた。御陀仏……。
 とんだアドベンチャーだ。空き地の標識はまったく正しかった。なるほど冒険だ。たまったもんじゃない。私は猛獣に食われ死ぬる。と、今にも私を襲わんとする虎の向こうに、何やら標識が見えた。私は襲いくる虎を死にものぐるいでかわし、標識へと、またまたまたもや走り走りに走った。
〈平凡〉白地に黒く漢字で書いてある。それでいい。平凡でいい。私は標識の向こうへ飛びこんだ。

「あなたちょっと」と声がする。私はリビングのソファーに寝そべり、昼寝をしていたらしい。あれ? と思う。
「あれ? 散歩に出かけて、亀を助けて、怒鳴り声から走って逃げたら知らないところで、それからジャングルで…… んん、夢か…」ぼそぼそ私の口を出た。
「わけのわからない事言ってないで起きて庭の雑草でも抜いてくれない」
「はい」私は妻に応えた。
 天気の良い休日の午後私は庭に出た。草むしりに。こんな事なら昼寝などせず散歩にでも行けば良かった。それが妻に先を越された。休日に草むしりとは平凡すぎる。それに面倒だ。雑草は庭一面ぼうぼうと伸びている。実に面倒だ。やってられない。と思いながらも私は軍手をして草を抜く。立派なもんだ。自分で自分を褒めてやりたい。五郎えらいぞ! って。
 それにしても……。昼の食事を済ませたまではしっかりと覚えている。ランチのメニューはインスタントラーメンと冷凍チャーハンだった。娘が妻に文句を言った。「わたしパスタがいいから昼パスタにしてって言ったのに。こんなんじゃなくてパスタとピラフが良かった」「おんなじようなものじゃないラーメンと炒飯だって」「ぜんぜん違う」「同じ同じ」ふたり喧嘩になると面倒なので私が中に入った。「まあまあ今度パスタとピラフを作ってもらうとして、今は出されたもの有難く食べようじゃないか」娘は納得いかない顔をしながらも頷いた。「作ってもらってて文句言っちゃダメ」妻はさらに言った。私はラーメンも炒飯も美味しくいただいた、それからひと息ついて散歩に出かけたような…… 橋本さんと挨拶して、カラスがたかって亀をつついてて…… うん。昼寝なんてした覚えはまったく…… 草むしりする今が夢……ジャングル………
「そうか! 」私は草むしりする手を止め、右のこぶしで左の手のひらを打った。〈平凡〉に来てしまったのだ。
いやだ。平凡でいいだなんて一瞬思ってしまったけれど、とてもいやだ。このまま平凡に終わってしまうだなんてぞぞけがする。そんなの死んでもいやだ。いっそ虎に食われちまったほうがましだった。歩いて亀に連れられ竜宮城へ行けば良かった。しかし、航海インポテンツである。もう発つ事は出来ない。ガビーンである。フニャーンである。ポヨンである。
 私はよっこらしょと立ち上がり、それから猛然と右のこぶしを天高く突き上げた。「ふんがし! 」何だかわからないけれど言ってみた。「フンガシ! 」まあ一度言ったった。「ふんがし! フンガシ! 」と繰り返しふんがしてやった。

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