小説

『鬼婆の旅立ち』室市雅則(『安達ヶ原の鬼婆』)

 シャ、シャ、シャ。
「はぁ」
 シャー、シャー、シャー。
「はぁ」
 シャッ、シャッ。
「旅人来ねえ…」
 『布施屋』と手で彫った看板を掲げた二間続きの小屋の中で、鬼婆は出刃包丁を研ぎながら呟いた。

 出刃包丁一本だけを握りしめ、安達ヶ原を命からがら逃げて来た鬼婆は、いい感じに人目にはつかないけれど、たまに旅人が通ると思われる土地に辿り着いた。
 傍に小川もあり、安達ヶ原と似た環境だから住むには問題がなさそうだ。そして、以前と同じように粗末な小屋を作り、獲物を待った。
人っ子一人通らなかった。
 鬼婆は、新たな土地への移動も考えたが、下手に動いて、また成敗されるのは堪らない。
 だから、ここで何とかしようと工夫を凝らすことにした。
 まず旅人を逃さず、確実に誘引するために『布施屋』と彫った看板を作り、ここで宿泊出来ることが一目で分かるようにした。
 次に、さすがにこの小屋では、粗末過ぎるだろうと考えて改修した。
 鬼婆はたった一人でやらねばならず、それはハードワークだった。まともに食うものもないので、山で食料を漁り、畑を作りながら、小屋の改修をしていると、あっという間に月日が経った。
 ようやく小屋が完成した頃には、自家製農園もできていたし、猪や野うさぎを狩る技術も身についていた。
 だが、肝心の旅人は影すら見せなかった。
 気が遠くなるほどの時間が過ぎた。
 鬼でなければ、生きてはいない程の年月が経った。
 世間では、鬼婆の存在は昔話や伝説の中で語られるものになったが、鬼婆本人は、無論それを知る由がなかった。

「はぁ。今日も来なかったな」
 鬼婆は、夕飯の猪汁をすすりながら嘆息した。
 嘆息はしたが、正直な所、今日も一日無事に過ごすことができた安堵も混じっていた。
 あとはもう寝るだけだと気を緩めている所、いきなり戸が叩かれた。
「うわっ」
「すみませーん」
 男の声。
 千年ぶりくらいに人の声を聞いた。虚をつかれ、一瞬、反応が出来なかった。
「は、はい」

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