小説

『網棚の遊戯者』間詰ちひろ(『屋根裏の散歩者』『赤い部屋』)

「すみません、本当に……。ほら! ゆうなもお姉さんに謝って!」
「でも、ゆうな、ちゃんとフタ閉めたもん」

 智子のおでこからは、ぽたりぽたりと麦茶が流れ落ちている。
「あ、いえ、大丈夫です……」
 母親は慌てながら網棚の荷物をおろして、幼い娘に向かって怒鳴りはじめた。ゆうなと呼ばれた娘はふくれっ面で、自分のせいじゃないと主張している。親子で言い争いしてないで、せめてハンカチとか、ティッシュとか渡してくれたらいいのに。智子は膝に乗せていた自身のバックからハンドタオルを取り出して、麦茶が流れているおでこを拭いた。
 お出かけがえりのゆうなちゃん親子はたくさんの荷物を抱えていた。いくつかの荷物は網棚の上に乗せ、手にもおみやげものがたくさん入った袋をぶらさげていた。網棚に乗せた荷物の中に、どうやら水筒が入っていたらしい。その水筒のフタが閉まりきっておらず、ぽたりぽたりと流れ出し、智子の頭上へと降り注いできたのだ。

 まさか、電車内で、突然雨が降ってきたかのように、ずぶ濡れになるなんて。考えたこともなかった。ついていない日は、何から何まで、ついていない。

 すみません、ごめんなさいと謝罪の言葉を大きな声で発していた母親だったが、降りる駅のアナウンスが聞こえたとたんに「ほら、ゆうなちゃん。早く降りましょう。リュック背負って」と、たくさんの荷物をすべて抱え、さっさと電車をおりてしまった。
 麦茶くさい自分の髪の毛にうんざりして、智子は「はあぁ」と大きくため息をつき、肩を落とした。遠巻きに一部始終を見ていた車内の人たちは、ちらりと同情の目を投げかけた。

「これから、私、やっていけるかなあ……」明石智子は電車に揺られながら、今日会社で起きたことをぼんやりと思い出さずにはいられなかった。


「えー、北村先輩異動ですか? こんな時期に? 次の異動の時期でも良くないですか?」
「ごめんね、明石さん。でも社内規定があるでしょ? ほら、同じ部署に夫婦がいるとダメっていうの。特例で次の時期までのばしてくれって言ったんだけど、さすがに無理だって」
 ごめんねと申し訳なさそうに謝る北村先輩を、智子はうらめしそうに見ながらも、しぶしぶと頷いた。智子の先輩である北村静子は同じ部署内の遠藤課長と何年も交際が続いており、ようやく結婚が決まったのだ。交際期間中は同じ部署にいても良いのに、結婚が決まったとたんにダメだなんて、理不尽な気もする。けれど、サラリーマンである以上、社内規定には従わなくちゃいけないことぐらい、智子にも理解できる。

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